住職 榎木境道

 武家の古都鎌倉に惹かれて、遠路の所をわざわざいらした方もおありかと思います。武士が澎湃ほうはいとして生活していた、鎌倉時代の往時おうじを思いつつ、法話を聞いていただければ幸いと存じます。
 その昔、鎌倉を根拠地として、北条氏が執権しっけんとして幕府を担っていた時代がありました。その頃、時の執権に取り立てられて、幕府の重要な職に就いていた青砥藤綱あおとふじつなという武将がいたということです。この人物はある日の夜、鎌倉の街中を流れる滑川を渡ったところで、銭一〇文を川に落としてしまいました。暗闇の中ですから、落とした銭を探し出すなど容易ではありませんし、それほどの金額でもなかったので、普通ならば仕方無いで済ませてしまうところですが、藤綱は違いました。従者に命じて、銭五〇文を出して松明を買ってこさせ、その明かりを頼りに探させ、ようやく拾い上げたというのです。
 後日この話を聞いた人が、「一〇文を探すのに五〇文も出して松明を買ったのでは、損をするだけではないか。」とわらったそうです。でも藤綱は「一〇文は少ないかもしれないが、これを探さなければ、天下の貨幣を永久に失うことになる。松明の五〇文は、自分にとっては損したことになるが、売ってくれた人は利潤を得たであろうし、合わせて六〇文の利となれば、はなはだ大きなものではないか」と答えたそうです。
 藤綱の故事は『太平記』などにある話で、実在した人物かどうかも分かりませんが、自分の利害だけを考えて物事を判断するのではなく、世の中全体の上から物事を判断すべきという、鎌倉武士への教訓として、伝えられてきた逸話であります。
 ところで、最近の世の中は○○まるまるファーストという言葉が流行っています。自分が大事、自分達第一主義ということですが、トランプ米大統領が自国第一主義を唱えてから、世の中も影響を受け、結果としてギスギスした世知辛せちがらい雰囲気が強まったようにも思いますが、皆様はどうお感じでしょうか?
 自分を大事にしたいのであれば、先ずは周囲にいる他人を大事にしてこそ、自分も大事にされるのでしょう。グリーンランドもパナマ運河も自国のものだという発想からは、お互いに憎しみしか生まれてこないのではないでしょうか。日蓮大聖人はこう仰せです。
 「人にものを施す人は、相手を元気にさせ、力を増して命を継いでいく徳が生まれるのである。また人の為に夜火を灯してあげれば、相手を照らすだけではなく、自分の周りも明るくなる」(御書七五一㌻取意)と仰せられています。
 仏教ではよく自利利他の精神といいますが、自分を利するには他を利してこそ、自分の利が生まれるということです。これからの国際社会、このような相手を思い遣る互恵精神ごけいせいしんが重んじられなければ、何時までも世の中から戦争が無くならないでしょうし、地球の環境破壊もとどまるところを知れません。
 ちょうど今日きょうまでが春のお彼岸の期間ですが、誰しもに先祖は有るはずです。しかし世知辛い世相に影響されて、世の人々から忘れられつつある先祖供養の大切さなども含め、本日私の話を聞いていただければ幸いです。

 現在の世の中をおさ治め、動かす原動力は何かと言うと、政治や法律は勿論ですが、経済の果たす役割も大きなものがあります。人々の幸福感といったものは、経済活動いかんによって、左右されることが多分にあるようです。最低賃金を引き上げようという動きや、輸入する物に関税を掛けようという話もみな経済用語です。
 ところで今で言う「経済」という言葉は、福沢諭吉が最初に使ったということですが、元々は中国の古典にある「経世済民」或いは「経国済民」と言って使われていたそうです。今ではお金を儲けることがそのまま経済活動のように思われがちですが、その昔、経世済民と言えば、「世をおさめ、民をすくう」意味であったといいます。つまり世の中を上手におさめることによって、人々を苦しみから救おう、ということですから、今考えられている経済、生産・分配・消費だけではなく、政治的にも社会的にも関わりのある、広い意味を含んでいました。
 それから時が下って現代では「世のため人のため」として行う経済活動が、いつの間にか「ウチの会社さえ良ければ」とか、「他社に負けるな」「利益を出すことが第一だ」「何々ファーストだ」などと中身が変わってしまいました。
 経済活動は決してお金儲けのためだけではない。もちろん稼ぐことは大事で、稼いで社員を食べさせていかなくては会社は成り立ちませんが、利潤をあげた分、社会に還元することを忘れては、経世済民の言葉が泣きます。そういう意味で昔の鎌倉武士・青砥藤綱の逸話は、今の経済を考える上でも、お手本になるのではないでしょうか。

 さて、「情けは人の為成らず」という、昔から言い慣わされてきた諺があります。阪神大震災が日本のボランティア元年となり、以来東日本大震災を経て、令和五年の能登半島の大地震へとボランティア活動は続いています。被災して絶望の淵に立たされた人たちにとって願ってもない助っ人となり、慈善の心がけで、積極的にボランティア活動に参加される方がおられます。そういう方にも、「情けは人の為ならず」は当てはまるでしょう。
 その一方で、この意味を「情けをかけてやると、相手を甘えさせるから為にならない。だから情けはかけない方が良いのだ」と、解釈をする人も増えているということですが、これも世知辛い世の中を象徴しているようです。
 「情けは人の為ならず」の本来の意味は、「人に情けをかけることは、巡り廻って自分に返ってくるものだよ。だから人に情けをかけることは大切なんだ」と、昔の人はこういう意味で使ってきました。
 言葉というのは時代を反映し、時代とともに移り変わっていくと言われますが、この諺は本来の意味と、今使われている意味とが全く逆転しています。そして本来の意味、「情けをかけることは、巡り廻って自分に返ってくる」という考え方は、仏法ぶっぽうで説くところの、縁起えんぎの思想に大変近いのです。(ご縁があったらまた会いましょうの縁です。)
 縁起の思想というのは、物事がどのようにして存在し成り立つかを説明するための、仏教で説かれる重要な概念です。「一切の事物事象というのは、ある原因に、条件となる縁が関わって生じたものであるから、独立して存在するものは何も無い」という捉え方をいいます。
 例えばここに太鼓がありますが、太鼓は我々の心に響く勇壮な音を出す為の道具です。でもここに置いたままでは、いつまで経ってもドンドンという音は聞こえてきません。叩き手がバチを持って叩いた時に、音は響きます。そこには太鼓の皮に対して、叩き手とバチという縁が関わって、初めて音を出します。これは太鼓の音に限らず、我々の世の中にあるものやこと、森羅万象全てについて言えることです。何事も縁が合わさって生じ、縁が解けて滅します。
 人間一個の存在も、仏教では地水火風空の五大ごだいが仮に和合して存在すると説いております。従って仮の和合が解ければ死を迎えます。そして私達がこの世で生存する間には、様々な人との縁、或いは周りを取り巻く環境世界との関わりの中で、苦楽の人生や生活があります。何れにしても我々は、単独では存在できません。これが仏教で説く因縁いんねん・縁起の世界ということですから、私達は周囲と協調しながら生きていくことに、充分意を用いなければなりません。独りよがり・自分勝手を好む方があるとすれば、そういう人ほど他人との対立は多くなり、味方をしてくれる人は少なく、その分幸せを感じる度合いも少なくなっていきます。

 ところで皆様方は、何か良いことがあった場合に、周りから祝福されることがあるでしょう。新築の家が完成したとか、ご主人が会社の役員になったとか、そういう時にお祝いをされて、どんな言葉でお答えしますか……。
 「お陰様で」と返しますね。様々な周囲のお陰を蒙って、喜ぶべき結果となりましたという、へりくだった感謝の言葉です。「お陰様で」は、様々な場合に通用する便利な言葉ですが、この言葉は、英語やほかの外国語には翻訳しにくいそうです。なぜならば、欧米人はそういうへりくだった感覚が余りないということもあるでしょう。が、より深く、日本人の「お陰様で」という背景には、やはり仏教の縁起という考え方が深く関わっているとされます。仏教に無縁だった外国の人には、少々難しい言葉なのかもしれません。
 人々のお陰を蒙ったならば、今度はお返しをする番です。報恩の心を表すわけですね。ところがこれも、西洋的なギブアンドテークの考え方を当て嵌めようとすると、おかしなことになる。直接恩を受けた相手が特定されて、何か品物などで御返しできれば良いでしょうが、不特定多数のお陰を蒙った場合には、なかなか難しい。自分の主人が職場で出世したという場合でも、上司から部下、同僚、お掃除のおばさんまで、様々な人のお陰を蒙ったのであれば、恩返ししようにも仕切れない。そういう場合はどうするか。そこに仏教の回向という考え方があります。
 回向とは自ら積んだ善行の功徳を他に差し向けることです。会社で出世した人の例では、直接相手へのお返しではなく、会社の福利施設に寄付するとか、世間の慈善事業に寄付するとか、御礼する相手の方向を変えるということです。
 回向と言えば、今のお彼岸は先祖供養が中心の行事ですから、去る二十日のお中日には当山でも参詣の皆様とともども、読経唱題をして当山信徒各家先祖代々の追善回向ついぜんえこうを致しました。その際導師は「ねんごろに御回向申し上げました」と御挨拶するのが慣例です。この言葉は葬儀や法事の場合にもよく使いますが、喪主も家族や親族も、その他参列者も加わって仏事を修したことについて、「今このように積んだ功徳を導師が代表して、精霊しょうりょう成仏の為にめぐらしました」という意味で、「懇ろに御回向申し上げました」と申し上げます。
 この場合の回向とは、自分が行った善行の功徳を、自ら受け取るのではなく、御本尊を通じて亡き精霊に差し向けるのです。読経の際の観念文にその意趣が示されておりますが、さらに「乃至法界平等利益ないしほうかいびょうどうりやく」と、法界万霊ほうかいばんれいを含め自他共に平等に成仏できることを願い、読経は終了します。
 では、せっかく発心して親の供養をしたのに、自分の為にはなっていないのか? と心配する方があれば、それには及びません。回向した功徳は、より大きな功徳となって自分に返ってきます。あたかも一粒の種籾が、水や肥料、日の光りなどの諸条件を受け、収穫の時には万倍にもなってかえってくるように、回向して諸精霊に廻らすことで、より大きな功徳に膨らんで、法界万霊を利益する善根となり、最終的に自分の功徳に納まります。ゆえに回向することは一粒万倍、一粒の種が万倍にもなって万霊を利した上で、最終的には自分を利益するという意味になります。
 そこで、先ほどは周囲からお陰を蒙った恩を、どうお返しすれば宜しいかという、問題提起をしました。その答えについて、これも回向するという観点から考えたいと思いますが、譬えとして華岡清州の例を挙げましょう。
 花岡清州は幕末に近い頃に出た医者ですが、この人は、世界で初めて全身麻酔に成功したことで知られています。その研究の過程で、どうしても治験というか、正確には人体実験を行う必要があったのです。その過程で母の命を終わらせ、妻をも失明させてしまいました。もとより母も妻も、何とか清州の研究を助けようと、進んで人体実験の被験者になることを申し出ました。そして二人への実験結果があって、清州の麻酔が実際の医療に使えるようになりました。華岡清州の成功は、身内二人の犠牲の上に成り立っていたのです。
 清州にしてみれば、二人の犠牲はあったけれども、麻酔そのものを世の中に普及させ、多くの人を救う力になりました。この結果こそは、犠牲になった二人への真の報恩回向となったことでしょう。二人に対する報恩の志しが、方向も形も変えて、多くの人々のもとをめぐって、救う役割を果たしたわけですから、これも回向の一つの姿と捉えられます。
 さて、これが仏法の世界になりますと、回向の意義はより直截的ちょくせつてきです。日蓮大聖人の御書ごしょ『兄弟抄』には、
 「まことの道に入るには、父母の心に随わずして家を出でて仏になるが、まことの恩をほうずるにてはあるなり」(御書九八三㌻)
とあります。
 私ども僧侶は仏法で説く「まことの道」、つまり真理を求めて出家をします。したがって親子の縁も断ち切らねばならず、当然親の面倒は見れません。しかし僧侶は仏弟子として多くの人を導くゆえに、その道を全うすることが親に対するまことの報恩になると、このように大聖人は教えられています。親に対して直接恩返しはできなくても、仏道修行に精進し人を成仏に導く存在となる。結果的にはより大きな報恩の誠を尽くすことになり、ここに回向としての本義が顕われています。

 さて、いくつかの観点から、回向と報恩についてお話しをしてまいりました。この辺りで、本日の結論に向かいたいと思います。
 我々一人ひとりの持てる力というのは、まことに小さなものです。毎日を精一杯生きるのにも、大変な思いをしている方がほとんどではないかと思います。仏法では生老病死の四苦を説いて、その上に、如何にしてそれを克服できるかという筋道を解き明かした教えでございます。日蓮大聖人はここにおいて、『竜門御書』に、

とにかくに死は一定なり。其の時のなげきはたうじのごとし。をなじくはかりにも法華経ほけきょうのゆへに命をすてよ。

(御書一四二八㌻)

と仰せられました。「死は誰しもに必ずやってくる」と。死ということから誰一人逃れられません。鎌倉時代に生きた人たちは、疫病の流行や、天変地夭、あるいは蒙古襲来という災難に見舞われ、死を身近に感じ、嘆きつつ生きる毎日でした。しかし死から逃れられないことは現代人も同様です。ゆえに、法華経の信心に身を委ねる覚悟をしなさいと教えられました。
 では、その法華経の信心とはどのようなものか、と申しますと、我々一人ひとりの命が、御本尊の功徳によって、最も活かされ、あらゆる苦難を乗り越える力が得られる、それがこの信心で説かれる功徳です。これまで一粒万倍の話をしてきましたが、まさに我々の一粒でしかない命が、信心することにより万倍もの価値を持つ。このことを日蓮大聖人は、

つゆを大海にあつらへ、ちりを大地にうづむとをもへ。

と、妙法受持の信心を奨められました。
 一滴の露にもたとえられる、我々の小さな命ですが、仏法という大海に入れるならば、同じ塩味がついて、大海の一部として大きく、悠久な用きをします。また我が命を塵に喩えても、その塵を、仏法という大地にうず埋めることで、万物を育む用きをすることになります。何と壮大な譬えではないでしょうか。
 これはすなわち、我々の命をこの御本尊に捧げ、南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょうとお題目を唱えることによって、我々の命は御本尊に同化していきます。そこに一粒万倍と表現すべき、大きな変化が、我が命に現れてきます。また私達を生み育ててくれた父母をはじめ、先祖諸精霊へも功徳が廻らされ、追善回向が果たせられます。そして私達自身も、万倍となって返ってきた功徳の恩恵を受け、死への怖れや病、その他直面する様々な苦悩を乗り越えて、強くたくましく生きる力が得られる、これが日蓮大聖人の仏法の功徳でございます。
 御参集の皆様にも、真の信仰を求めて、是非とも日蓮大聖人の仏法に帰依をして、力強く有意義な人生を送って下さい。
 以上、お話申し上げて本日の法話とさせていただきます。
 皆様方には遠路のところ、御多用の中を、この寺子屋法話会に御参集下さり、誠に有り難うございました。

(2025年3月記)