目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ(盂蘭盆御書1377㌻)

 厳しい暑さとともに、盂蘭盆の時期を迎えた。
 盂蘭盆の行事は、釈尊の弟子目連が、死後に餓鬼道に堕ちて苦しんでいる母を救おうとしたことに由来する。
 目連の母が餓鬼道に堕ちた原因は何だったのだろう。それは生前、ものをむさぼり惜しんだ(貪欲)罪によるものだったという。そこで目連は釈尊の教えにのっとり、十方の聖僧を招き、母に成り代わって供養をしたことで、母の一劫にわたる苦しみを取り除いたという。
 無縁社会と言われる現代にあって、日ごろ自分自身が生きていくことにも、汲々としている人が多い。その中でも、誰しもが様々な人や社会のお陰によって、生かされていることを忘れていないだろうか。そう考えると、決して無縁の世の中とは言えないはずだ。そして今ある自分一個も、両親や兄弟、さらには亡き先祖があればこその自分の存在である。
 盂蘭盆の行事は、このような因縁で結ばれた自己の存在を考え直す大切な機会ではなかろうか。親の恩を思い、先祖のお陰を思い、恩返しができないかと考えるところに、自分の生き方にも新たな意義が生まれてくる。我が身の損得しか考えないところに、餓鬼道に堕ちた目連の母の苦しみがあることに気づかなくてはならない。
 日蓮大聖人は、「父母に御孝養の意(こころ)あらん人々は法華経を贈り給ふべし」(御書一五〇六頁)と仰せである。法華経の題目を送って亡き精霊を回向することが真の報恩となり、我が身にも福徳を積めることを信じたい。