テーマ – 仏の教えとともに今を生きる
なぜ正しい信仰は必要なのか(平成26年3月23日)

 今はちょうどお彼岸の季節で、世間ではこういう機会を利用して休暇期間を定着させようとしていますが、彼岸はもともとれっきとした仏教の行事でした。そもそも彼岸という行事がどういういわれで始まったのかということですが、それは我々の住む娑婆(しゃば)世界を仏教では此岸(しがん)と言い、これは苦しみの多い、また穢(けが)れた世界のことを意味しています。それに対するあちら岸が彼岸(ひがん)です。彼岸は「パーラミータ」(波羅蜜多)と言いますが、悟りの世界とか、理想の境地のことを指しています。またそこへ渡る意味もあり、日本仏教としては古来、悟りの境地へ渡るために、特別に仏道精進の期間として春秋それぞれ七日間を宛てて、お彼岸の行事が行われてきたという歴史があるようです。
 お彼岸に先祖供養や墓参りをするのも、無くなったご先祖が、みな悟りの世界・彼岸にいると考えたことから、とりわけこの期間中に追善供養がなされる習慣となりました。
 それでは、彼岸といわれるその理想の世界は、一体どこに求めていけばよいのでしょう。仏様の本懐(ほんかい)として説かれたのが法華経ですが、それ以前に方便として説かれた爾前経(にぜんきょう)では、西方極楽浄土や東方浄瑠璃(じょうるり)世界、蓮華蔵世界や密厳(みつごん)浄土などという仏国土が説かれているのですが、その何れもが現実には存在しません。すると我々は理想の世界をどこに求めるべきなのかと言えば、日蓮大聖人は法華経の法門に基づいて次のように説かれています。
浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。(平新46・)
と。
 浄土とは彼岸と同儀に考えられますが、仏様の居る仏国土が浄土で、そこにいる人々は仏様に守られ、悩みの無い理想的な世界と一往考えられるのです。それに対する穢土(えど)とは、此岸と同義で、我々の住むこの娑婆世界のことです。ドラマで罪を犯した人が刑期を終えると、「明日は娑婆に出られるぞ」などと言いますが、娑婆に出れば自由になれるという、牢獄よりは良い場所との意味でしょう。ところが娑婆世界の本当の意味は、原語を「サハー」と言い、訳せば忍土(にんど)という。つまり欲心多い人々が住む世界であるから、耐え忍ばなくては生きていけない、そういうのが娑婆世界なのです。
 皆様方は日々職場や学校にいても、色々と我慢して生活しているでしょう。駅の構内を歩いていても、ボーッとしていれば誰かがぶつかってきて、その都度文句を言っていればきりがない。ポイント故障で電車が遅れれば、駅には人が溢れるし、職場にも遅刻の連絡をしなくてはならない。復旧に時間がかかればだんだん疲れてくる。こういう時はなぜか駅員さんも余り人前に顔を出さなくなるようです。そこで誰に不満をぶつけるわけにもいかないし、こういう場合はじっと我慢しかありません。
 このように考えても、我々の住む娑婆世界は耐え忍ぶべきことが多々ある世の中で、決していつも思い通りの楽しみが多かったり、心から安穏を感じられる場所ではないのです。
 けれども先ほどの大聖人の御教示は、浄土と穢土、つまり仏国土も娑婆世界も、元々は二つの世界があるのではなくして、我々の心が正しければ、その国土も浄土となり、反対に邪(よこしま)な心の人が多い所は穢土であるとして、浄土となるも穢土となるも、その要因は私たちの心の中にあると説かれました。これを「娑婆即寂光(しゃばそくじゃっこう)」とも言います。「寂光」とは仏国土と同じ意味です。
 それでは、我々の心をどのように正しくして、仏国土を築けばよろしいのでしょうか。結論から先に申しますが、正しい信仰を正しく持つことによって、それが叶えられるのです。この答えを導く前に、先ず本日の題名として掲げた「なぜ正しい信仰は必要なのか」について考えてみましょう。

 仏教経典(譬喩経〈ひゆきょう〉)にあるたとえ話ですが、一人の旅人が、重い荷物を背負って、曠野を歩いていました。
 ふと気づくと、後ろからけだものの吠える声が聞こえてきます。「何だろう?」と振り返って見ると、怒り狂った一頭の酔象(すいぞう)が、地響きを立てて追いかけてくるではありませんか。旅人は背中の重い荷物を下ろす間もなく、背負ったまま無我夢中で逃げました。でも追いつかれてしまうのは時間の問題です。「ああ!あの恐ろしい酔象に踏みつぶされてしまうのか」と、旅人は観念しました。
 すると、古井戸が目の前にありました。
 旅人はこれ幸いとばかりに、その中に隠れようと覗き込みました。運の良いことに、その井戸に一本の太い藤蔓(つる)が垂れ下がっています。頼りないけれども、ようやく掴まれそうな藤蔓です。「ああ、助かった」と、それに掴まって井戸の中に降りて行きました。
 途中で上を見上げると、あの酔象が荒い息を立てて、こちらを睨んでいます。旅人はもう怖くなって、思わず目をそらしました。そこで今度は下を見るとどうでしょう。暗くて気づかなかったのですが、井戸の底には大きな毒蛇がどくろを巻き、口から火炎のような舌を出して、上から降りて来る人間を、一呑みにしてやろうと待ちかまえているではありませんか。
 旅人はまたびっくりしました……。上に上がることも出来なければ、下に降りることもできません。一本の藤蔓が頼りのこの旅人、どうすることも出来ずに、必死にしがみついてブルブル震えていました。
 そうこうするうち、また気がついてみると、どこから出てきたのでしょう。白いネズミと黒いネズミが一匹づつ、いつの間にか現れています。そうして藤蔓の根元を「ガリガリッ、ガリガリッ」と、互い違いに噛んでいるではありませんか。旅人はもう生きた心地もなく、ひたすら今にも食いちぎられてしまう藤蔓に、しがみついているより仕方ありませんでした。
 ふと周りを見回しますと、今まで気づかなかったのですが、井戸の周りには、何とも言えない奇麗な花が咲いて、美味しそうな実がたくさん垂れ下がっています。旅人は実の一つを採って口に運びました。今生の思い出にと口にしたのですが、それは何とも言えない、喩えようもない美味しさでした。つい一粒、もう一粒と、口に運んでいきました。
 こうして、先ほどの恐ろしさもどこへやら、酔象のことも、毒蛇のことも、ネズミの「ガリガリッ」と噛む音も忘れて、美味しい実を食べながら、その実とともに咲いている美しい花に見とれていたのです。
 仏典にあるこの話は、どういうことに譬えた教訓なのでしょうか。井戸に中吊りになった旅人とは、実は我々この世に生きている衆生のことです。その背中に背負った荷物、追いかけられても容易にはずせない荷物とは、過去世の宿業を背負っている姿です。
 後ろから追いかけてくる酔象とは、生死を左右する無常を表しています。過去世に六道輪廻(ろくどうりんね)といって、何度も生まれ変わりながら、苦しみの生死を酔象に追われるごとく、旅してきたのが私たちです。そしてたまたま今世に生を受けたのですが、その一生はあたかも古井戸にぶら下がったようなものです。70年80年という、いつ尽きてしまうかもしれない儚(はかな)い我々の人生は、まるで一本の頼りない藤蔓にしがみついているようなものではないでしょうか。
 自然災害にしても、交通事故や病気もそうですが、無常の世の中は、我々をいつ何時でも死に追いやろうと、酔象のごとく追いかけてきます。そうでなくても、代わる代わる首を出すネズミがいます。旅人の命をやっとつないでいる頼りない藤蔓の根元を「ガリガリッ」と噛んでいた白黒のネズミは、何の喩えでしょうか。そうです、昼と夜が交互に繰り返され、その中で我々の人生の終焉が一日一日と迫り来る、その象徴が白黒のネズミです。
 このように刻一刻、命綱の切れてしまう一瞬に向けて歩みを進めているというのは、誰しもが否定できない事実でしょう。井戸の底で今か今かと待ち構えている毒蛇は、何れ我々が飲み込まれてしまうであろう、死の恐怖を表しています。
 このように見てきますと、我々は本当に死の恐怖に向かって毎日を過ごしているのですが、普段そんなことは少しも考えていません。思い思いにこれが良かろう、あれが良かろうと、勝手気ままな人生を送っています。あたかも、古井戸でたまたま見つけた美しい花と、美味しい実にうつつをぬかして、それまでの怖さを忘れ、実を食べるのに夢中になっているのと同じです。つまり美味しい実とは、三毒・五欲という、我々の煩悩を表しているわけです。
 三毒というのは、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)という、人間誰しもが持っている煩悩のこと。五欲とは、五根(眼耳鼻舌身の感覚器官)によって捉えられる欲望のことです。
 結局、我々の人生も、生きる意義とか目的というものを真剣に考え、それを一歩一歩でも実行していきませんと、自分の煩悩の為すがままに、酔生夢死(すいせいむし)のごとき空しい一生を送ってしまうことになります。このような戒めが、今ご紹介した仏典の説話の中に、巧みに織り込まれているのです。

 日蓮大聖人は『新池御書』に、

雪山(せっせん)の寒苦鳥(かんくちょう)は寒苦にせめられて夜明けなば栖(す)つくらんと鳴くといえども、日出(い)でぬれば朝日のあたたかなるに眠り忘れて又栖をつくらずして一生虚しく鳴くことをう(平新1457頁)

と仰せで、私たちを寒苦鳥になぞらえています。
 寒苦鳥とは、ヒマラヤに住むと言われる鳥です。ヒマラヤの夜はもの凄く寒くて、ブルブル震えながら、「よし、明日は、昼間の暖かいうちに必ず巣を作っておこう」と決意するのです。でも夜が明けてお日様がポカポカ照ってくると、暖かさに連れられて、居眠りをして一日が終わってしまいます。するとまた夜になって、ブルブル震えながら「よし、明日こそは巣作りをしよう」と決意するのですが、昼間になるとまた居眠りをして過ごしてしまう。こうして、一生の間巣が作れずに終わってしまうのが寒苦鳥です。
 大聖人は「一切衆生もまたかくのごとし」と仰せですが、寒苦鳥とは実は我々人間に譬えているのです。
 一時の享楽を求めることにあくせくし、金銭にしても体力にしても、或いは持てる時間にしても、遊びの為には少しも惜むことをしません。ところが「どうしたら有意義な人生を送れるだろうか」ということにどこまで積極的になれるでしょうか。
 ただ働きたい時に働いて、あとは気ままに遊んでいられるなら、これほど自由な人生はないでしょう。しかし、そういう生き方が出来たとして、果たしてそれは人間らしい生き方なのでしょうか。臨終を迎えた時に満足できるでしょうか。
 私どもが僧侶の立場で、信心する大切さを説いても、「働かなければ喰っていけないではないか」と、信心する時間などは無いという人がいます。なるほど、働けば食べることはできるでしょう。「では、食べることさえできれば、あなたは死なないのですか?」とさらに聞いてみます。相手はびっくりします。死ぬ時がくれば誰しもが死ぬ。食べても死ぬという絶対の真理、冷酷な現実があることを、うっかり忘れている人が多いのです。
 川柳にも、「いつまでも生きているつもりの顔ばかり」とあります。我々はもっと無常な命のことを身近かに感じ、その中で自分としての生き方をどうすべきか、真剣に考え取り組まなくてはならないのではないでしょうか。
 そして限りある人生を、どう価値あるものにできるか、このことに答えを出してくれるのが、日蓮大聖人の仏法なのです。

 日蓮大聖人はこの鎌倉で、南無妙法蓮華経の教えを街行く人々に説いていかれました。当時の鎌倉は正嘉元年8月23日の大地震を初め、相継ぐ大地震や旱魃(かんばつ)、疫病(えきびょう)の流行により、人々の悲惨な姿がそここそにありました。そのように悩む原因は、実は自然現象の悪化が原因ではなく、人々の心にある、と見通された大聖人は、誤った教えを棄てて、仏の本懐である法華経に帰依すべきことを『立正安国論』に説かれ、幕府を諫暁(かんぎょう)されました。
 その結果幕府の手で伊豆に流罪され、その後竜ノ口法難では、侍所の所司平左衛門尉頼綱が密かに、大聖人のお頸を刎(はね)ようとしました。しかし法華経の題目をもって、一切衆生を救わんとされる大聖人のお命は奪うことが出来ず、佐渡への配流となりました。
 このように、末法の法華経の行者には、身命に及ぶ大難があると説いているのが法華経です。大聖人は身をもってそれを体験できたことを非常な喜びとされました。このように、身命を賭して妙法を行じた、その功徳をもって顕されたのが、大御本尊であります。
 今、文明の進歩した時代に、また先進国日本に生きる私たちですが、福島原発の事故を経て、地元の方々は故郷から離れ、本当に辛い思いをしておられます。それとともに、原子力発電により便利さ・快適さを追い求めてきた現代人の、傲慢(ごうまん)さというものも浮き彫りになりました。今回の反省のなかで、現代人が原発に頼る原因は、人の心にある煩悩の為す仕業であることに、気付かねばなりません。
 その他、生命工学や遺伝子治療など、生命倫理に関わる分野の進歩も著しい現代です。ともすれば、人間の分を越えた領域に手をかけてしまうのではないか、そういう懸念も現実味をおびている現代、これらも人間の煩悩の仕業です。大聖人が『立正安国論』をお書きになった鎌倉時代より、人間の煩悩に任せた行為は現代の方がずっと進んでいるのではないか、そのようにも感じられる昨今です。
 「なぜ正しい信仰は必要か」この答えは、人間が人間としてより有意義に生きる為に、また科学的な知見に頼って人類が暴走しない為にも、日蓮大聖人の説かれた妙法の信仰が不可欠であることを申し上げ、本日の話を終わらせていただきます。