テーマ – 仏の教えとともに今を生きる
「心を知ろう」? 十界論に親しむ(平成25年9月22日)

 ちょうど一年前よりこの護国寺で行ってきました寺子屋法話会、今回で五回を重ねることになりました。皆様方には、御多用の中をお越し下さいまして、まことに有り難うございます。
 さて、今日の内容は「心を知ろう」ということで、心に関する法話を申し上げたいと思います。
 心といえば、今の季節に相応しい「女心と秋の空」が思い浮かびます。女心と秋の空は変わりやすい代名詞になっているようですが、一方で「男心と秋の空は一夜に七度変わる」という諺もありますので、変わりやすいのは女心だけではないようです。このように女心も男心も定まりが無いということは、心そのものがいろいろな思いが交叉して、つかみ所が無いという存在、これはどなた様も感じられるかと思います。
 こういう心について、夏目漱石はずばり「こころ」という題名の小説を残しています。人の心というのは、自分でも思いもかけないことを突然思い、行動に移すことがある。それが他人を自殺に追い込むほどに、大きな影響を与えるという、そういう心の深層部を扱ったのが漱石の「こころ」です。人間の心の本質をえぐり出した名作ゆえに、いつまでも読み続けられるのでしょう。
 かといえば、最近話題となったのが「おもてなし」の心。瀧川クリステルさんのオリンピック東京招致レセプションで、日本人の温かい心を強調するようにピーアールしていましたが、彼女が最後にした合掌の仕草には、「心を込めてお迎えします」という慎ましさ、相手を大事に思う心が出ていました。申し分の無いピーアールで、「心を込める」大切さを、改めて感じさせられました。
 このように、我々の心は、時に人を傷つけたりする悪い作用があるかと思えば、人々を一様に幸福に導くほどの、不思議な力を発揮するのも心なのです。
 それでは、我々の心というのは、いったい身体のどこに存在するのでしょう。皆さんも、ここだと思う所をちょっと押さえてみて下さい。
 胸なのか、頭なのか、もっと別な部分なのか、それとも身体全体なのでしょうか。或いは我々の肉体から離れて、頭の上の辺りに浮遊しているかと、こう思う人もあるようです。
 そもそも、漢字の「心」についてですが、どうしてあのような形をしているのでしょうか。実はこの漢字は、成り立ちが象形文字から来て、心臓を型どったといわれています。すると我々の祖先は、心は心臓にあると思っていたのでしょう。でも医学の発達した今日ですが、心臓手術は無数に行われても、心を発見したという話は聞きません。人工心臓に付け換えても、心は今までのままで変化はありません。
 それでは、ものごとを考える脳の中に、心が存在するのだろうかといえば、脳の解剖や手術も多く行われる今の世の中です。頭の中は神経細胞ニューロン同士がシナプスで結合され、電気回路のようにめぐらされているだけで、心の存在を確かめることはできません。
 すると、心は実は何処にも無いのかと言えば、今、我々がこうして同じ問題を考えている心がある、というのは誰も否定できませんから、まことに心とは不可思議な存在としか言いようがありません。
 それでは仏法では、心をどのように説いているのでしょう。 昔の仏教者が詠んだ歌ですが、
「心こそ 心惑わす心なれ 心にこころ 心許すな」
とあります。良い心と悪い心、仏教用語で云えば悟りの心と迷いの心がともに我々の心に具わっているのです。この歌は、いつも双方の心が葛藤している状態を巧みに詠み込んでいます。最初の「心こそ」は迷いの心で、次の心は悟りの心。三番目はまた迷いの心というように、悟りと迷いの心が交互に出て来ます。
 実際我々の心の中では、このように善悪の心同士の葛藤が行われているというのは、皆様も感じられるでしょう。それをより詳しく解き明かしたのが、これからお話しする十界論(じッかいろん)で、とりわけ法華経では十界互具ということを説いています。これは誰しもが法華経の教えによって、必ず成仏できることが明かされた素晴らしい内容ですので、その一端をここでご紹介いたしましょう。

十界の構成図 - コピー 十界の心、或いは十界の命と申しますが、これは我々が喜怒哀楽する心の様々な状態を、十通りに分けたもので、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界・声聞界(しょうもんかい)・縁覚界(えんがくかい)・菩薩界(ぼさつかい)・仏界(ぶッかい)とあります。
 このうち、地獄界は最も低い不幸な境界(きょうがい)で、文字通り地の底の牢獄に入れられたような心。「瞋(いか)るは地獄」と説かれ、瞋りとはやり場のない恨みの心です。五逆罪などという仏教で特に重いとされる罪を犯して、そういう境界に堕ちて苦しむとされます。
 餓鬼界。これは常にお腹をすかしたままで、食が得られない境界です。「貪(むさぼ)るは餓鬼」と説明され、「自分さえ良ければ」という、貪欲の心によって堕ちる境界です。
 畜生界。動物のように本能のまま行動する境界。自分本位で他を顧みない生き方をすると、この境界に堕ちます。「愚(おろ)かは畜生」と説かれ、正しいものの見方、正しい判断ができない境界です。以上の地獄・餓鬼・畜生を合わせて「三悪道(さんなくどう)」と言います。 
 次は修羅界。阿修羅という闘争好きの神様が有名ですが、「諂曲(てんごく)なるは修羅」と言われ、曲がった心の持ち主です。この心は他人より自分が勝れていないと気が済まず、自分より勝れた者への嫉みと悔しさから、闘争を起こします。三悪道にこの修羅界を加えて、「四悪趣(しあくしゅ)」と言います。
 次は人間界(人界)。普通の人の、穏やかで平静な心の状態をいいます。「平(たいら)かなるは人」と言われ、こうした平常心は、理性の働きで自己を統御しますが、平穏な心を維持するには心の鍛錬も必要です。「人間らしく生きる」ことが求められる世の中ですが、恩を忘れず恩に報いようという念を強く、何事にも向上心をもって当たることが大事です。
 天界(天上界)。人の平常心を越えた、喜びの境界です。元来天界には容姿端麗な天女が住んで、人も善い行いを積んだ者は天界に生まれると言われます。「喜ぶは天」と説かれ、喜びの多い境界です。しかし有頂天というのは喜びの絶頂期ですが、それは反対に衰える時期でもあり、天界の喜びも長くは続きません。
 以上の地獄界から天界までを六道と言い、我々日常的に体験している心の状態であることは、御理解いただけるのではないでしょうか。しかし我々の心は一箇所にとどまらず、六道の間を行ったり来たりしているので、これを六道輪廻と言います。そしてまた六道とは、それぞれの衆生が住むところ、住む世界を指して言う言葉でもあります。
 我々人間界に生まれた者は、人間界の衆生しか目に映りませんが、もっと低い地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界の衆生も存在し、また天界の衆生も存在するのです。そこで、地獄界乃至天界と言えば、それらの衆生が住んでいる世界をも意味するのです。
 我々が死んで後、次にどのような境界・世界に生まれるか、それは因果の理法のもと、今生における行いによって、生まれる世界が定まるとされます。これについても六道輪廻、或いは輪廻転生の言葉が使われて、今生は人間界に生まれたが、次はどこに生まれるかは今世の行い次第であると、こう言われるのです。盂蘭盆の期限となった、目連尊者が餓鬼道に堕ちた母を救う話がありますが、今生を貪欲に生きれば、死後に餓鬼道に堕ちるという誡めともなっています。
 ともあれ、六道輪廻で何れの世界に生まれても、苦しみの境界で、たとえ天界に生まれたとしても、その喜びは長くは続かないのです。
 ここにおいて、この六道輪廻の苦より如何に脱するか、そこに仏道修行が勧められるのです。
 先ほど紹介した十界の命でいえば、六道の上に声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界がありましたが、これらを四聖と言います。この四聖は、仏道修行をして得られる境界です。このうち、声聞界と縁覚界は合わせて二乗界と言いますが、自己の成仏のみを目的に、低い教えを拠り所に修行する者です。
 このうち、声聞は仏の声を聞くと書き、仏の教えをもとに修行します。縁覚の場合は、華が散ったり落ち葉が舞うのを見て覚ると言いますが、独想的に自らの知恵で覚りを求めます。しかし何れにせよ二乗は真の仏の悟りに至らず、自らの低い覚りに満足して、また他人を救う気持ちも起こさない、自己中心の典型ですから、仏様から激しく叱られたのです。
 次の菩薩界は慈悲の心で仏道修行をして、成仏を目指します。菩薩は上に菩提(成仏)を目指し、下に多くの悩める衆生を救済しようと、誓願に生きる貴い境界です。
 最後の仏界は、仏道修行により悟りを得た、仏様の心を言います。絶対的な幸福境界です。そうした最高の境界が、我々凡夫の心にも必ず具わっているのですが、煩悩の心が強くて、仏の心が隠されているゆえに、六道輪廻の苦しみから逃れられないのです。
 このように六道から仏界まで説明しますとやや複雑になりますが、少しまとめてみましょう。以上にお話ししてきたことは、我々の心には十界の心、十通りの生命状態があるということ。そして普通は迷いの境界をさまようような六道輪廻ですが、この迷いの循環から離れる為に仏道修行を行えば、四聖の心・境界に変われること。
 こうして、我々は人間界の衆生として生まれてきましたが、他の六道四聖の命も元々具わっているのですから、十界の命となります。また先にも申しましたが、人間界以外の他の九界にも住所があって、そこに住む衆生がいます。そこで我々人間界の衆生も、今生の行い次第では、地獄界等に堕ちなくてはならないと申しました。
 ゆえに人間界に十界の命があるのと同じように、他の九界に住む衆生にもそれぞれ十界の命があるので、これを十界互具(じッかいごぐ)と申します。すなわち地獄・餓鬼・畜生乃至仏界の衆生それぞれに十界の命が具(そな)わるので、十かける十で百界の命が数えられるのです。経典多しといえども、十界互具は法華経のみに説かれている教えなのです。
 この十界互具には大事な意味があり、地獄界の衆生がなぜ救われるかといえば、地獄の衆生にも仏の命が具わっているから救われるのです。地獄界に堕ちた者は、餓鬼界・畜生界というように、段々と位を上げなければ救われないというのではなく、地獄界は地獄界なりに、仏の命を顕せばそのまま成仏です。反対に、仏の命にも地獄界の命が具わっていればこそ、地獄界の衆生の苦しみを知り、仏様は救いの手を差し伸ばされるのです。

 今お話ししましたように、我々の心は、一言で言えば不可思議としか言いようのない存在です。仏様は我々のこの心のことを「妙」と名付け、「妙法蓮華経」と説かれました。「法」とは真理のことで、「妙という名の真理」です。しかし妙法だけでは衆生は理解しがたいゆえに、たとえを蓮華に借りて説明するのです。
 蓮華という植物は、御存知のように仏教を象徴する華で、汚い泥水の中から、純白の華を咲かせます。我々の心も本来は、汚れの無い仏の命を具えているのですが、世の中の悪縁に引かれて凡夫の命となり、様々に不幸を感じるのです。
 また蓮華は花を咲かせた時に、すでに実を結んでいるという不思議な特性がありますが、これは因果倶時(いんんがぐじ)を顕します。つまり南無妙法蓮華経と唱えれば、自ずと成仏の境界に至れるという、妙法の不思議な力を象徴するのが蓮華です。
 日蓮大聖人は十界互具の御本尊を顕されましたが、御本尊の中央にある南無妙法蓮華経を囲むように、先ほど申した地獄・餓鬼・畜生から菩薩・仏に至る十界の命、十界の衆生が配されています。どんな境界の衆生も南無妙法蓮華経と唱えれば、仏の命が顕われるとの意味です。
 本日聴聞された皆様方も、日々生活される中で遭遇した困難をどう解決すべきか、あるいは御自身の向上につながる何かを、信仰に求めている方もおありかと思います。この御本尊に帰依して唱題することにより、様々な苦悩にも正しい解決の道が現れ、又これまで感じなかった不思議な幸福感・充実感も体験されることでしょう。
 本日を機縁に、御参集の皆様には、正しい御本尊に帰依され、私たちと共に楽しく信心ができますよう、心から念願致すものであります。
 最後に、日蓮大聖人の御書に経文を引用され、「心の師とはなるとも、心を師とはせざれ」とあります。大変重みのある御文ですから、どうぞこの意味をそれぞれお考え下されば幸いです。御静聴、誠に有り難うございました。