テーマ – 仏の教えとともに今を生きる
第三回 生きることと死ぬこと ― 生死の二法について ―(平成25年3月25日)

 この護国寺における恒例の寺子屋法話会に、本日も多数の方がお越し下さり、遠路の方もおられるかと思いますが、まことに有り難く存じます。当山住職の榎木境道と申します。三十分少々ですが、司会者より御案内の内容について、法話を申し上げたいと思いますので、御静聴のほど宜しくお願い致します。
 それにしても、この冬は随分寒かったですね。北国の大雪も、現地の方には大変な御苦労だったと思いますが、鎌倉もこの所ようやく春らしさが感じられるようになりました。一方で東京では桜の開花がすでに始まったということですが、我々人間の思いと、自然界の営みとは、かなりの隔たりがあるようでございます。
 ところで、暦では本日からお彼岸の入りとなっております。この彼岸というのは、我々の生きている世界の向こう側にある世界のことで、もちろん我々の眼には見えないけれども、これは必ずある世界であり、また我々誰しもが、一度は訪れなくてはならない所でありましょう。
 彼岸について、仏法の上からは、悟りの世界と説明する場合もありますが、皆様方の意識の中では、ご先祖様がおられる世界というように、考えられる向きが多いかと思います。或いは、我々が生きている世界を生の世界というならば、彼岸は死の世界ということ。これを「生死の二法」と申しまして、生の裏には死が必ずあると考えなくてはならない、すると彼岸の世界は必ずあるということになります。
 ともあれ、一年間に春と秋の二度、お彼岸の行事がとられていますが、「生死の二法」ということ、もしくは「死ぬこと」に関しては、普段余り気にされないかもしれませんが、せめて年に二度あるお彼岸には、少し真剣に考えていただくことも大切です。死を考えずして、我々の生はないのです。そういうわけで、本日は「生きることと死ぬこと」、生死の二法について、共々に考えてみましょう。
ある本に、こういう体験が載っていました。少し古い話になりますが、朝鮮戦争の頃のことです。アメリカの一人の若者が従軍した。間もなくして、故郷の両親のところに、息子の死亡を知らせる通知が入った。当然ながら両親は落胆し、「可哀想に。息子はもう帰らぬ人となってしまった」と、諦めざるを得なかったのです。ところがある日、死んだと思っていた息子から、電話が掛かってきました。
 「お父さん、ぼくは戦場でケガをしたけれど、アメリカの病院で治療を受けて助かったんだ。もう良くなったので、迎えに来てくれないかな。」
両親は知らせに、喜んだのは言うまでもありません。
 「すぐに迎えにいくからな!」と。
 ところが息子は、
 「実はぼくと一緒に、戦場で傷を受けた親友がいるんだ。彼は戦場で受けたケガが元で、両足を切断してしまったんだ。この親友も一緒に、家に連れて帰りたいんだけど、いいだろうか?」
 「まあ、少しの間ならいいじゃないか。」
 「いや、少しの間ではなくて、一生の間、その親友の面倒を見て欲しいんだ。」
 お父さんはびっくりして、
 「お前何を言っているんだ。見ず知らずのケガした他人を、一生面倒見るなんて、出来るわけ無いだろう。」
 「だったらお父さん、ぼくを迎えに来てくれなくてもいいんだよ。」
 「何を言うんだ。お前は大事な息子じゃないか。すぐに行くから、待っていろよ。」
 両親はとにかく、息子を迎えに出発したのです。
ところが病院に着くと、院長先生が待っていて、「お宅の息子さんは先刻自殺したんです」と言って、遺体安置所に連れていかれた。そこで息子と対面したのですが、何と両親は、その足が切断されていることに気づくのに、時間はかかりませんでした。息子が電話の向こうで言っていた、両足を切断された親友というのは、本当は息子自身だったのです。(『しっかり死ぬということ』ひろさちや・中村仁一著)
 なぜ、息子は自殺してしまったのでしょうか。
 病院で両足を切断されてから、息子は色々と考えたのでしょう。
 「自分が生きて両親の前に姿を現せば、きっと喜んでくれるに違いない。でも、一時は喜んでくれても、そのうち足のない自分のことを、生涯面倒見なければならないとしたら、両親は次第に苦痛になるのではないか。」などとためらいつつ、試しに父親に電話をしてみた。案の定、生きている自分の声を聞くと、すごく喜んでくれた。でも足の切断を、親友の身の上に起こったこととして話してみると、父親は良い返事をしてくれなかった。本当は自分の足のことだと判れば、両親はどれほど驚き、落胆するだろうか。そしてそれからずっと苦労を掛け続けるだろう。いっそのこと会う前に命を絶てば、生涯にわたって両親に迷惑を掛けることもなくなるだろうと。そのように思い至って、息子は自ら命を断ったのでしょう。
 子どもの孝養心を思うにつけ、何とも痛ましく、悲しい話であります。
 ところで仏典の中に、毘摩大国の狐の話があります。
 この狐はある時、師子に追われて逃げてきました。「ああ、もう少しで追いつかれてしまう」と、狐が観念しかかった所で、偶然にも深い涸れ井戸があり、狐はそこに落ちてしまいました。追いかけてきた師子は、深い穴を覗き込むもののどうしようもない。獲物を諦めてどこかへ行ってしまいました。狐は「自分は助かった」と、ホッとしました。
 ところが、その井戸から上がろうにも、深すぎてとても上がれません。そうこうするうち時間は過ぎて、腹が空いても、食べる物はありません。日数が過ぎてゆき、狐は飢え死にするであろう自分を思うようになりました。その時に狐は一つの悟りに到ったのです。
 「このまま飢え死にすれば、自分の死は無駄になる。そうであれば、どうしてあの時追いかけてきた獅子に、この身をささげなかったのだろう。万物が無常から免れないのであれば、あの時、師子に喰われていれば、この身も役立って、本望だったのに」と。
この時、天にいた帝釈天が狐のつぶやきを聞いて、「この狐は何かを悟っているに違いない」と思いました。下界に下りてくると、狐を井戸から救い出し、そして高座を設けると、「汝の悟った法を説いてくれ」と頼みました。そこで狐がおもむろに説いた教えが、
 「人有り、生きることを願い死ぬことをむ。又人有り、死ぬことを願い生きることを悪む」
と、こういう教えだったのです。
 まことに世の人々は、長く生きよう、生きようと願う人があるかと思えば、世の中がいやになり、早く死にたい、死にたいと考える人もあるのです。しかし、生と死、仏法の立場は、どちらに執われることなく、しかも双方ともに受け入れるべきことを説いています。これを「生死の二法」と申します。
 「生きよう、生きよう」と願う人は、得てして「死」のことを忘れがちです。川柳に「いつまでも生きているつもりの顔ばかり」とありますが、自分の人生が無限に続くと思っているように、毎日毎日を無為に過ごしている人が多い世の中ではないでしょうか。
 日蓮大聖人は、「先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(一四八二㌻)と説かれました。
 臨終とは生死のはざま、今生一生涯の総決算の時ですから、臨終をどのように迎えるべきか、このことを生涯の一大事ととらえ、そこから立ち返って日々の生活、自分の人生設計を立てていくことを説かれています。
 しかしそうは言っても、自分の臨終がいつ訪れるのか、分からないと言われるかもしれません。確かにその通りで、誰しもが自分の臨終は分かりません。『徒然草』には、「死は前より来ることはない。後ろから迫ってくるものだ」と、その恐ろしさを述べています。マラソンのゴールのように、目の前に死の時期が見えていれば、それまでは安心して過ごせるかもしれませんが、後ろから迫ってくるもの。ヒタヒタと足音が近づいて、ある日追いつかれてしまう。その瞬間を臨終と言うのです。
 このように死は恐ろしい。ゆえに日常からはなるべく遠ざけ、あえて考えないようにしようと、何気無くそう計らっている人が多いのではないでしょうか。
さて、生きることに執われる人とは反対に、死を望む人だって、中にはおられるかもしれません。先ほどの両足を失った青年のように、「両親の苦労を思えば、いっそ死んだ方が」と思い詰める人もあるでしょう。しかし、そもそも我々の命とは、一体誰のものなのか。この点をしっかり考えてみましょう。
 もちろん「この命は自分のものだから、生きようが死のうが、自分の勝手だ」と言われるかもしれません。では、自分はどうやってこの世に生まれてきたのでしょう。考えてみて下さい。それは両親がいたから生まれてきたと、答えられるでしょう。
 でも、その両親にもそれぞれ親がいて、自分から見れば四人の祖父母がいます。この方々なくして、自分の存在は無かったのです。そのさらに一代前には八人の親がいました。こうして十代さかのぼってみると、そこにはなんと一〇二四人の親がいたことになります。そのうちの誰一人が欠けても、自分はこの世に存在しなかったのです。
 十代遡っただけでも、一〇二四分の一の確立ですから、「俺の命は俺だけのもの」と、胸を張れる自分でしょうか。育てられ、直接恩恵を受けた実の両親はもとより、一〇二四人も数えられる、過去に懸命に生きていた祖先たち。その方々と共有すべき、自分の今の命ではないでしょうか。これを二十代・三十代とっていけば、自分の生まれる確立は、もっともっと低くなるのです。このように、数限りない先祖を背負って、希なる可能性のもとに、今の自分の存在がある、生命があることを考えましょう。そうすれば、我が生命といっても、簡単に自由にはできないでしょう。

 ところで、我々の身体というのは、科学的に言えば炭素・酸素・水素などの原子で出来ていると言いますが、その上に、空気や水、塩、その他自然界の物質を摂取すること無くして、我々は一日たりとも生存できません。つまり、私どもの身体は、宇宙を構成する要素の一つであって、我々の命は宇宙につながっているのです。これは科学的に証明されます。
 皆さん方は、古いお墓で五輪塔というのを御覧になった方もあるでしょう。今は色々な形のお墓がありますが、昔のお墓は五輪塔が基本でした。こちらにある、お塔婆にも五輪の刻みが入っています。
 五輪というのは地水火風空の五大を顕しています。五大は仏教で万物構成の要素とされ、我々衆生の当体もまた五大から成っているとして、それを顕したのが五輪塔です。我々の身体は骨など硬い部分と、血液などの水分、体温という温熱の部分、呼吸で取り込んだ酸素など、そういう物質から成っているので、これ等をそれぞれ地・水・火・風で顕し、その上に空という、全体の調和をとる用きを、空で顕しています。科学で炭素・酸素・水素というのを、仏法では地水火風空と言っているのです。
 この五大は、何らかの因縁あるがゆえに、結びついて我々の命がこの世に生まれ、因縁が解ければ五大がばらばらになり死を迎えます。そして、五大とはすなわち妙法蓮華経の五字のことであると、日蓮大聖人様は説かれています。こちらに御安置された御本尊様は、南無妙法蓮華経日蓮とありますが、仏様の悟りの当体です。言い換えれば我々の命も妙法蓮華経であり、妙法蓮華経に帰して、仏様と同じ当体になるということです。
 話が少々複雑になりましたが、私が今のようなお話を申し上げたのは、「我々の生命は誰のもの?」の問いについて、我々の生命は自分のものであって、自分のものではない。大宇宙の一分であり、仏様からいただいたものという、答えを申し上げたのです。
人は信仰に様々な期待を懐いています。自分の願望をもとに、あちらの仏様、こちらの神様と、どこかの仏神が望みをきいてくれないだろうかと、右往左往する人もいます。或いは天から仏神が我々を見ていて、悪いことをすれば罰し、良いことをすれば福徳を与えてくれる。「お天道様はお見通しだ」と信じている方もあるでしょう。それも一分の信仰には違いありません。
 しかしながら、誠の信仰の眼を開いてみれば、妙法蓮華経という御本尊の中に、我々もまた包み込まれて、仏様の大慈悲に懐かれ、生死生死を繰り返していることに気がつくことでしょう。法華経の信心をするということは、仏の大慈悲を身でもって、感じることなのです。そこに本当の喜びが生まれ、御本尊に感謝をする気持ちも湧いてくるのです。
 こちらに御安置された御本尊様に向かって、南無妙法蓮華経と唱える信心によって、どなた様にも生きる本当の喜びが、実感されることでしょう。このことを本日の結論と致しまして、つたない法話を終わらせていただきます。
 それぞれ貴重なお時間を割いた上で、お越し下さいまして、まことに有り難うございました。