テーマ – 仏の教えとともに今を生きる
第二回 三世の生命と宿業 (平成24年11月23日)

 今日は勤労感謝の日ということで、国民の休日になっておりますが、そもそも「勤労感謝の日」とはどういう意味なのでしょう。他の休日に比べても、いささか分かりづらく感じるのは、私だけではないと思います。「勤労感謝」とは、我々国民が、勤労に対して感謝することなのか、あるいは勤労者に対して感謝をすべきなのか、などと思って調べますと、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」という趣旨で、この祝日が決められたということです。しかし、そもそもの起源は、昔の新嘗祭(にいなめさい)、農作物の収穫を感謝し、翌年の五穀豊穣を祈るという、古くからの行事が起源ということです。
 新嘗祭は、天皇陛下が国民を代表して行う国事行為だったのですが、終戦後は占領軍の意向で、天皇とは切り離し、国民を主体とする行事に変えたことから、これが現行の勤労感謝の日となったものです。
 しかし同じ感謝をするにも、国民同士感謝しあっても余り意味がないのではないか。新嘗祭と言う言葉をそのまま使えば、右傾化し過ぎた印象もありますが、しかし先人たちが収穫を喜び、五穀豊穣を天に感謝してきた心にこそ、我々が学ぶべき大事なものがあろうと思います。
 現代人は余りにも即物的で物に頼りすぎ、見えざる存在に恐れを感じたり、畏敬(いけい)の念を懐くことも忘れてしまったようですが、「もので栄えて心で亡ぶ」という現実を直視し、反省しなくては、この世知辛い世の中に潤いを取り戻していくことは、難しいように思います。
 仏法の教えは因果の理法に基づいています。今ある自分の存在、どうして今この世に、こうして自分は生きているのであろうと、その因縁をしっかり考えてこそ、将来に亘って正しい生き方ができると、このように説いているのが仏教のです。
 ところがそうした因果の理法をわきまえず、たまたま人間に生まれてきたのだから、それ以上深く考える必要はないだろうと。あるいは過去世のことなど、難しいことを考えず、今を楽しめればいいではないかと、そういうような姿勢ですと、行き当たりばったりの、刹那主義・享楽主義の生き方しかできなくなります。
 宗祖日蓮大聖人は、「因果をしらぬ者を邪見(じゃけん)と申すなり」(平成二七七㌻)と仰せられ、因果などは無いんだと考えるあり方を、「邪見」と、つまり邪な見方であり思想だとして、誡めておられます。
同じく、大聖人の御書に引かれた『心地観経』には、
 「有情輪回(りんね)して六道に生ずること、猶(なお)車輪の始終無きが如く、或は父母と為(な)り男女となり生々世々互いに恩有り」(御書三四四㌻)
とあります。
 我々人間のことを仏教では「衆生」と言いますが、止めどもなく生死を繰り返し、六道を輪回してきたことは、あたかも車輪を回すようなもので、始めも無く終わりも無い。そのように生死をくり返す間には、お互いが父母となり夫婦となりして、恩ある関係を築いてきたと説いています。
 ところがこれに疑問を懐き、「我々に過去世があったことなど、どうして信じられよう。過去・現在・未来という三世の生命など、まやかしではないか。」と思う人がいるかもしれません。ではここで、分かりやすいたとえを挙げましょう。昨日・今日・明日で考えてみて下さい。
 我々が今日行うことは、の全行いの上に立って、今日の行いがあります。仏教では行いのことを業(ごう)と申しますから、昨日の業の結果として、今日の自分の行動・生活がある。例えば何かの商品のセールスマンがいて、昨日取引先と売買の契約を交わしたとします。すると、今日は朝から契約に従って、品物の準備をしなくてはなりません。このように昨日契約を交わしたという行いは因となり、当然今日の行動・結果に影響を与えます。
 さらに今日の行いの全て、今日為した業もまた、明日の行動に必ず影響するのです。今日、契約に添えないような事態が見つかれば、明日はまた契約を交わした相手に会い、修正を頼まなくてはならなくなる。
 このように、昨日・今日・明日の行為というものが連続していることは、誰も否定できない事実です。そうであればこれをもっと拡げて、過去世の行い、その宿業によって現世があり、また現世の行いが宿業となって、来世があることも、自ずと分かっていただけるのではないでしょうか。因みに宿業とは、前世の行いが次の世まで尾を引くことです。
 人は生まれた時から、境遇が違います。生まれたての赤ちゃんはみな平等ではないか。そこに差別をつける必要があるのか、と思いたいのですが、しかし裕福な家に生まれる子もいれば、そうでない子もいる。飢餓の世に生まれる子もいれば、世界中には戦争孤児も多くいます。日本では赤ちゃんポストに置かれる子もいるのです。
 このように、人は生まれた時から境遇に違いがあるのは、どうしてなのでしょう。仏法の上でこれを考えれば、それぞれの赤ちゃんが持って生まれた宿業によるものと、このように説明せざるを得ません。

御存知かもしれませんが、仏典に「四人の妻」の話があります。
 ある所に四人の妻を持つ裕福な男がいましたが、次第に年齢を重ね、死ぬ時のことも考えなくてはならなくなりました。ところがその時には、自分だけで死ぬのは何とも寂しい。妻が四人もいるのだから、一人ぐらい冥土まで連れて行けないものかと思いました。そこで、彼は第一の妻を呼んで口説きます。
 「お前は四人の内でも、わしが最も愛してきた。毎日化粧をさせ、寒いといえば服を着せ、暑いといえば涼をとり、欲しいと言えば何でも買って大事にしてきた。だから、わしと一緒に冥土へ旅してくれないか。」このように懇願しましたが、第一の妻は、「私はいやです」と、にべもなく断りました。
 そこで第二の妻を呼び、「わしはお前に恋い焦がれ、お前を得るのにどれほど苦労したことか。人と争ってまでしてお前を得たのだ。そしていつも側に置いてやったではないか。どうかわしと一緒に旅をしてくれ。」しかし第二の妻は、「第一夫人が断ったのでしょう。どうして私がご一緒などできましょう。」と、これまた断られました。
 男は仕方なく第三の妻を呼びました。この妻とは時々会って慰め合う程度の仲です。一緒にいれば互いに飽きるし、離れていれば気になる、そんな関係でした。「お前はわしと一緒に行ってくれるだろう?」「いいえ、私はお墓までは見送りますが、それ以後はいやです。」と。
 そこで男は仕方無く、第四の妻を呼びました。この妻のことはいつもは頭になく、ほとんど使用人同様に扱ってきたのですが、それでもこの妻は毎日忙しく立ち回り、夫の意のままに、どんなことでも懸命に働いてくれました。なのに、慰めの言葉一つ掛けた事はありません。
 男は半ばあきらめつつも、第四の妻を呼んで「私と一緒に行ってくれないだろうか?」と、躊躇(ちゅうちょ)しながら尋ねました。すると彼女は意外にも、「私はあなたにお仕えする身でございますから、どんなに苦しくともおそばを離れません。どこまでもお伴いたしましょう。」と答えました。
男は三人の妻のことはすっかり諦め、第四の妻とともに冥土へ旅だっていきました。
 ここに出てくる四人の妻には、それぞれたとえているものがあります。第一の妻とは、身体(からだ)のことです。人が自分の身体を愛する様子は、第一夫人を愛するのと変わらず、何でも思い通りに叶えて、大事にすることこの上もないのですが、しかし冥土まで、この身体を持っていくことはできません。
 第二の妻とは、男がこの世で築いてきた地位や財産、名誉のことです。生涯どれほど苦労して得たかしれませんが、これもあの世に持って行くことは出来ません。
 第三の妻とは、本当の妻のことです。生きている間は睦み合い、支え合ってきた夫婦でも、死んでしまえば、お墓まで送ってくれますが、その先まで妻は来てくれません。
 すると、第四の妻とは何にたとえているのでしょう。皆さんおわかりになりますか。それは男が今生で為してきた行為、「業(ごう)」のことです。業だけは、死んだ後々まで着いてきますから、第四の妻のごとく、忘れ去ったり無視しても、どこまでも着いてきます。因果の理法は善因善果、悪因悪果ということですから、善悪の行為によって善業・悪業と分かれます。つまり業と一言でいっても、必ず悪い業だけを意味するものではありません。また「定業(じょうごう)・不定業」といって、必ず報いを受けるべき定業があれば、そうでない不定業もあります。強い業は宿業(しゅくごう)となって命に刻み込まれ、冥土はもとより、来世・未来世まで着いていくのです。第四の妻が、「どこまでもお伴致しましょう。」と答えたごとくです。
 このように、仏法で説く業こそは、三世を貫いて、過去の自分と未来の自分を映す鏡となるものです。そこで、また、『心地観経』の文になりますが、
 「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、その現在の因を見よ」
(平成五七一㌻)
とあります。
 人は皆それぞれ宿業をかかえてこの世に生まれてきたゆえに、過去世にどんな行いをしてきたかを知りたければ、今の自分を見なさいと。今の境遇の中に自ずと過去が現れているという教えです。また将来の自分を推し量ろうとすれば、今の自分の中にその因が見られるとの教えです。
 業病という病があります。これは先天性の疾患などが著しい場合、過去世の宿業と考えられます。また、世の中には何度も事業に失敗するような人がおります。あるいは交通事故や何らかのトラブル、色々な災いが次々起こってしまう人もあるでしょう。これも過去世からの宿業ではないかと、考えてみる必要があります。すると、今の自分がどのように生きなければならないかが、わかってきます。
 宗祖日蓮大聖人は、この鎌倉で南無妙法蓮華経のお題目を弘められました。そして『立正安国論』を幕府に奏進され、当時の人々が天変地夭や飢饉疫病などに悩むのは、人々が誤った教えを持つ故であり、唯一の正法である法華経に帰依すべきことを訴えられました。しかし当時の幕府はむしろ大聖人の御真意を理解せず、竜口(たつのくち)で頸を刎(はね)ようとし、それが適わないと知ると、佐渡に配流して迫害しました。
 そのような事態を大聖人様は、どう受け止められたでしょう。「自分の前世に宿業があればこそ、このような迫害に遭うのである。それが法華経を弘めた為に受けた迫害であれば、むしろ未来世に受けるべき宿業の報いを、今生に消滅できるゆえに、有り難いことである」と仰せられました。
 ここに、今に生きる私たちの、お手本があるのではないでしょうか。
 皆様方には恐らく、様々な悩みをかかえている方もおありでしょうが、それには必ず原因があり、その原因を先ずはっきり知ることが大切です。偶々(たまたま)こうなったと考えるべきではないのです。原因が分かれば、それへの対処方法も見つかります。
 そして、過去世からの宿業が原因で悩む場合、これについては何十年も悩んできたという場合もあるし、あるいは、ある日突然業病が発見されたという人もあるでしょう。そのような事態は誰しもが想定しておかなくてはなりません。そしてその為の備えとしても、過去・現在・未来という、三世の生命を説く日蓮大聖人の仏法に帰依してみてはいかがですか。宿業が三世を貫くものであれば、その悩みは、三世の生命を説く大聖人の仏法によってしか解決はできないのです。
 大聖人は、
「三世を知るは聖人なり」(平成八六七㌻)
と説かれ、あるいは
 「仏が尊い存在であるのは、過去を考え未来を知り、三世を通じて世を見通す智慧を具えるからである」(同九〇九㌻取意)
と説かれています。過去・現在・未来の三世を知ることが、仏である証しなのです。
 私たち凡夫には三世を見通すことは出来ませんが、日蓮大聖人の仏法に帰依していくならば、自ずからそのような見方が出来るようになります。そういう智慧が次第に具わって、様々な悩みも、解決されることでしょう。
 どうぞ、本日皆様がこの会場で聞かれたことは、単なる知識として受け止めるのではなく、心の財産とすべく、信仰の第一歩を実践していただきますよう心から念願して、法話を終わらせて頂きます。