テーマ – 仏の教えとともに今を生きる
永遠の幸福とは

 本日は、この護国寺における寺子屋法話会に多数の方がお越し下さり、誠に有り難うございます。当山護国寺の住職、榎木境道と申します。
 厳しい残暑が続いておりましたが、この数日間で、かなり涼しくなってきたようでございます。「暑さ寒さも彼岸まで」と言われますように、今はちょうど、お彼岸の期間にも当たつております。
 お彼岸は春と秋にそれぞれ一週間ずつある行事ですが、彼岸とはそもそもどういう意味があるのでしょうか。
 それは、仏様のまします悟りの世界・国土のことを指して彼岸(大河の向こう岸)と申します。仏様が守って下さる国ですから、そこに住む人々は幸せです。それと対照したところで、我々の居るのが此岸(こちら岸)です。此岸は苦しみや穢れの多い世界とされ、裟婆世界(しゃばせかい)と申すのであります。
 そういう裟婆世界の此岸を離れ、悟りの世界・彼岸に行こうとして、春秋お彼岸の期間には、特別に一週間、仏道修行をしてきたというのが、そもそもの、お彼岸の行事のいわれだったのです。今では、お墓参りとか先祖への追善供養が主となりまして、自分自身でお彼岸の期間、仏道修行に心懸けようという風潮は失われてしまいました。それでも先祖廻向(えこう)をきちんとされる方は殊勝と申すベきで、それさえ次第に廃れて来ているのが、昨今の世の中でございます。
 ところで、ただ今申しました彼岸と此岸という捉え方ですが、私どもの信仰する法華経の教えでは、此岸も彼岸も本来無いのです。今生、この世の中で、正しく法華経を信仰できれば、その場所がそのまま寂光土(仏様の住まわれる仏国土)になるという教えで、これを娑婆即寂光と申します。
 宗祖日蓮大聖人は、
 「浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり」(四六ページ)
と説かれ、この世界・国土に住む私たちの心の善悪によって、その国土、その場所がそのまま幸せな浄土(仏国土)にもなるし、反対に穢土(娑婆世界)にもなると仰せであります。
 宇宙から見た地球の映像が、テレビなどで放映されます。御覧になられた方もあるでしょう。あの青々とした地球の神々しい姿を見れば、穢土(えど、穢れた国土)とか裟婆世界などとは、とても言うべきではないと思うのですが、あれほど美しい地球という名の星を、宇宙広しといえども、他にどこに求められるでしょう。結局は、地球に住む我々人類が、森林伐採など勝手放題をしていけば、穢れてしまうのです。核の汚染などもそうです。反対に、我々が環境を大事にしていけば、地球はいつまでも生命を育む美しい星であり続けるでしょう。
 ですから、此岸・彼岸という国土を二つに分けて説いた教えというのは、裟婆即寂光という、法華経の真理に導こうとして、仮に説いた教えに過ぎない。これを方便の教え、爾前経(にぜんきょう、法華経が説かれる以前の教え)と申します。
 因みに、爾前経に説かれる彼岸(悟りの世界・国土)にはどういうものがあるでしょう。西方極楽浄土(阿弥陀如来の国土)や東方浄瑠璃世界(薬師如来)、蓮華蔵世界(毘盧遮那仏)、密厳浄土(大日如来)などとあります。この中には、皆様も聞き慣れた名前があるでしょうが、これらも皆、法華経で説く真理へ導く為に方便として説かれた仏国土であったのです。

 このように、苦しみの多い裟婆世界に住んでいる私たちですが、裟婆とはサンスクリット語サハーの音訳で、忍土と訳します。何でも耐え忍んで生きていかなくてはならない国土という意味です。現代人にはストレスが多いと言われていますが、忍土であればこそ、ストレスも多いのかもしれません。
 その中でも、我々は少しでも幸福に生きていきたいと、願っております。
 最近の日本では、幸福とは何かを論じる人が増えているそうです。作家五木寛之氏が「新・幸福論」という本を出していますが、人々が将来に漠然たる不安を懐いている時期には、幸福について論じられることが多いというのです。
 日本人は、昨年東日本大震災を体験しました。そして、日本列島が地震活発化の時期に入っていると想定されている中で、東海地震・東南海地震、・南海地震、それに首都直下型地震なども予想され、それだけでも「いつ来るのかな?」と不安な毎日です。その上、今はユーロ圏の経済状態が不透明だとか、今の尖閣問題で中国との摩擦が続けば、日本経済も大きなダメージを受けるのではないか。政治も誰が総理になっても足の引っ張り合いで、何事も決められない。そうした中で、学校ではいじめの問題があり、大人社会の縮図がそのような形になって現れているのではないか、などなど。
 このように、我々の周囲はどこもかしこも不安だらけな世の中ですが、これから将来にわたって一体真の幸せとは何を目標に、どのように求めていったら良いのでしょうか。
 ここにいらっしゃる皆様も、そういうことを真剣に考えておられるかと思います。しかし、夫婦和合して、家族皆が仲良しだとか、「とりあえずこうなれば良いのにな」という、身近な幸福の姿は思い浮かんでも、これが絶対に崩れない、永遠の幸福であるというものを、見出すことは難しいでしょう。それはどうしてなのか、と考えれば、この世の中が、無常なる存在であるからです。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と方丈記にあるように、万物は常に移り変わっています。昨日幸福であったことが、今日になると、そうではなくなるということもある。株券一枚にしても、そういうことが言えるでしょうし、福島原発にしても、大震災の日までは、電気を安く大量に造りだしてくれる、大変便利な宝物でした。しかし、事故を起こした今は、手が付けられないほどの厄介物になっています。
 こういう世の中の実相を、仏教では諸行無常と説きました。無常であればこそ、絶対的な、永遠の幸福などは、なかなか見つけられないのであります。

 何れにしましても、世の中や人生のあり方を考える上で、仏の智慧により、その教えのもとに身をゆだねていってこそ、皆様方を生涯にわたって利益する、究極の幸福が見いだせることを、是非ともお考え下さい。
 ご存じの方もおありかと思いますが、仏典に四頭の馬の譬えが説かれております。第一の馬は、騎士が鞭を振り上げる、その影を見ただけで騎士の心を知り、走り出すという、駿馬がおります。
 第二の馬は、第一の馬ほどではないが鞭が尻尾の毛に触れただけで走り出すという、優秀な馬、良馬がいます。
 第三の馬は、騎士の振り下ろす鞭が肉に食い込み、痛みを感じてからようやく走り出す。こういうのを鈍馬と申します。
 では第四の馬はどんな馬でしょうか。これは普通の鞭では称わず、鉄製の棒で叩かれ、痛みが肉や骨にまで達して、ようやくのそりと動き出す。これを駄馬と申します。
 こういう四通りの馬があるのですが、実は、馬だけではなくして、人間の性分も同様で、様々であると、いうことを譬えた教えでございます。
 世の中の無常の姿を想う。先の東日本大震災では多くの方々が亡くなりましたが、世の中にはこんなに悲しいこともあるのだと思い、日頃から信心怠りなく、仏道精進に心懸けられる人、これは第一の駿馬に誓えられます。
 次に、遠い縁の親戚とか友人がいて、そういう方が大震災で亡くなった。あの人も犠牲になったのかと、自分に当てはめて信心に向かえる人、これは第二の良馬に誓えられるのです。
 次には、両親とか兄弟とか、ごく身近な方が命を失ってしまった。ああ大事な伴侶を失った。こんなに悲しいこともあるのかと気付き、ようやく信心に向かえる方、これが第三の馬、鈍馬に誓えられます。
 では、第四はどんな人?と言えば、自分の身に直接危険が迫らないと、気付けない人のことです。医者から癌の告知を受けたとか、大きな事故に巻き込まれて大怪我をしたとか、実際自分自身に痛みを感じて、ようやく信心に眼を向けられる人のことです。
 現実にはこれよりもっと低い、どんな状態が目の前に起ころうとも、全く信仰に無関心の方もあるようですが、これを誓えるに第五の馬を設定しなくてはならないかもしれません。しかし、本日お集まりの皆様方には、第一の馬、駿馬たることを、是非とも目指していただきたいと思います。

 日蓮大聖人は今からおよそ七百五十年前に、この鎌倉で、初めて南無妙法蓮華経のお題目を人々に説かれました。当時の世相は相継ぐ天変地夭や飢饉疫病が流行り、人々は塗炭の苦しみを味わっていた時代です。『立正安国論』の冒頭に、
 「旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘(えきれい)遍く天下に満ち、広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩(ともがら)既に大半に超え、之を悲しまざるの族敢て人も無し。」
と。まさに末法と表現される、そのままの様相を呈しておりました。大聖人はこの『立正安国論』を幕府に差し出され、仏の本懐の教えである法華経を尊ばなければ、世の中の平穏も、人々の幸せも無いことを説かれたのです。しかし幕府の要人をはじめ、当時の人々はむしろ大聖人様に刃を向け、とりわけ竜ノ口法難の時には、片瀬の浜で武士たちが取り囲んで、首を切ろうとしましたが、末法の一切衆生を救わんとされる大聖人様に対して、諸天の守護が無いはずはありません。江ノ島の方より光る玉が現れ、空中を移動するような現証が起こり、武士たちは恐れおのき、ついにお頸を刎ねることができなかったのです。
 今の科学では、光る球とは球電現象であつたという説明もできますが、まさに頸が刎られんとするその時に、現れたということ、これは、科学では説明がつかないことなのです。
 ともあれ、このような度重なる迫害や、また伊豆と佐渡の二度に亘って流罪されたことについては、末法の世に法華経の行者の振る舞いとして、お経文の中にすでに予言されていたことでした。ゆえに大聖人様は、そのような法難に遭うことを、むしろ喜びとされたのです。そうしたあらゆる困難を乗り越えて、信仰の根本である、大御本尊を顕されたのです。
 そのような大聖人の御境界を、私たち日蓮正宗の僧俗は、七百年前の昔から、末法の御本仏と拝してきました。
 竜ノ口の頸の座こそは、まさに法華経に説かれた仏様の御境界を顕した時として、「発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)」と申しております。
 仏法を正しく信仰することは、我が心に絶対の確信を培うことであります。先にも申しました通り、世間法、世の中の様々なことには、絶対とか、永遠と言えるものはありません。しかし仏法は、普遍的真理の上に、教えが説かれております。宗教にも様々ありますが、正しい教えに対する絶対の確信、それを心にしっかりと築くことこそ、今生、後生にわたっての永遠の幸福となり得るのであります。このことを結論と致しまして、本日の法話を終わらせていただきます。
 皆様方には御静聴下さいまして、誠に有り難うございました。

(平成二十四年九月二十三日)