丑寅の法門

拝読御書『上野殿御返事』

相かまへて相かまへて、自他の生死はしらねども、御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむかいにまいり候べし。三世の諸仏の成道は、ねうしのをはりとらのきざみの成道なり。仏法の住処は鬼門の方に三国ともにたつなり。此等は相承の法門なるべし。委しくは又々申すべく候。恐々謹言。

1361㌻7行目~9行目

 本日は宗旨建立会の法要を奉修しましたところ、皆様方には深信の御参詣をいただき、ともども御報恩の読経唱題ができまして、大変ありがたいことと存じます。

 本日立宗会の行事は、末法に出現遊ばされた日蓮大聖人が、この日の早暁、南無妙法蓮華経のお題目を初めて唱え出されたと伝えられることに拠るものです。この日、正午より清澄寺諸仏坊の持仏堂の南面での初転法輪においては、出家の師道善房をはじめ、清澄寺の大衆等に対して題目の意義を披瀝され、念仏等の破折をされました。すなわち、末法御本仏の御化導の第一歩をしるされた日が本日の宗旨建立でございます。

 先ほど弘安2年4月20日におしたための『上野殿御返事』の最後の部分を拝読いたしました。今一度読み上げながら、大概の意味を申し上げてまいります。

  「相かまへて相かまへて」とは、これから大事なことを申しあげるので、謹んで聞いて下さいとの意。「自他の生死はしらねども」自分も貴方もいつ死を迎えるかはわからないが、あなたが臨終を迎える時、すなわち生死の中間には、この日蓮が必ず迎えに参るから、信心を深くして過ごすようにと。

 この「臨終のきざみ(間際)」のことを「生死の中間」とも言うのですが、非常に大事な意義がありまして、後ほど出て来る「丑寅の刻」「鬼門きもんの方角」にも密接に関わりがあります。そもそも丑寅の刻そのものが、生死の中間に当たります。夜の暗闇は死の世界です。それから次第に明るんでいって朝を迎えますが、それ以降は万物が活動する生の世界。ゆえに丑寅の刻は生死いずれともつかない時刻で「生死の中間」と表現するのです。

 ところで、本宗の僧侶が着用する衣の色を「薄墨色うすずみいろ」と言いますが、これも生死の中間と同じ意味で、中道ちゅうどうとも表現されます。

 ともかくも生死の中間という、そういう大事な時に、大聖人様が成仏へ導く師として迎えにきて下さるという、まことに有難いお言葉です。

 ただし、考えようによっては、我々が死ぬ時に、成仏を目指すためにはお迎えがいるのかと、思われるかもしれません。よく世間では「お迎えが来ました」と言いますが、あれは念仏信仰から出ているような考え方で、本宗の信仰とは全く違いますので混同されませんように。

 この妙法の信心においては、仏道修行をして成仏を目指すには、「師とともに居る」ということが大切なのです。この御書の少し前に次のように示されています。

ここに日蓮思ふやう、提婆品を案ずるに提婆は釈迦如来の昔の師なり。昔の師は今の弟子なり。今の弟子はむかしの師なり。古今能所不二のうしょふににして法華の深意をあらはす。されば悪逆の達多だつたには慈悲の釈迦如来、師となり、愚痴ぐちの竜女には智慧の文殊、師となり、文殊・釈迦如来にも日蓮をとり奉るべからざるか。

(1360㌻1行目)

  このように昔を尋ねると、提婆達多と釈尊は師弟の関係にあった。或いは竜女と文殊菩薩もそうで、古来能所不二・師弟相対のところに成仏が果たされるという道理があるとの仰せです。ゆえに我々の臨終についても、同様に大聖人様が師として導いて下さる形が大事です。葬儀における導師の僧侶は大聖人のお使いであり、また導師が奉掲する導師曼荼羅も、大聖人の当体としての意義があると拝されます。

 このように、臨終に導師を迎えられるかということも、個々の日頃の信心によるのであって、特に「臨終の一念は多年の行功による」と日寛上人も『臨終用心抄』に仰せで、永年の信心の積み重ねが大切です。普段からあまり信心に関心が無く熱心でなければ、いざという時、大聖人が導いて下さるであろうか、そのように心得て、普段から一生成仏・臨終正念を目指して、信行に励まなくてはなりません。

 さて、始めに拝読した御書の続きですが、

三世の諸仏の成道は、ねうしのをはりとらのきざみの成道なり。

  過去・現在・未来に出現するあらゆる仏様の成道(成仏)の時刻は、「ねうしのをはりとらのきざみの成道」つまり丑寅の刻、今で言えば午前二時から四時までの間が丑寅の刻であります。宗祖大聖人様は竜口法難で頸の座に着かれたのが「ねうしの時に頸はねられぬ」と開目抄に仰せですが、この時、頸の座で示同凡夫の御境界を払い、久遠元初の御本仏の境界を顕されたのです。

 総本山では御法主上人猊下によって丑寅勤行が古来欠かさずに行われてきたのも、丑寅の刻という重大な意義を踏まえた上で、なされてきたものと拝します。

 続く御文は、

仏法の住処は鬼門きもんの方に三国ともにたつなり。

  今度は方角について仰せです。仏法の住処、つまり寺院を建立する場合でも、御本尊を安置する場所についても、インド・中国・日本ともに鬼門きもんの方角である。東北の方角を鬼門と言います。

 東北というのはうしとらの方角で、陰陽道ではこの方角から鬼が出入りすると言われ、忌み嫌われてきました。中国では北東は騎馬民族が討ち入ってくる方角として嫌われ、日本でも京都のうしとらにある比叡山に延暦寺を建てたのは、鬼の出入りを防いで、王城を守るためという思想があったからです。総本山大石寺もやはり京都から見れば北東に位置します。では東京に遷都してからはどうなのか?というと、大石寺は東京の裏鬼門に当たっています。

 一応世間的な意味からしても、そのように言えるのですが、仏法において、とりわけ法華経の法門としては、丑寅の方角、総本山からすれば丑寅の方角に富士山があり、丑寅は成道の方角とされています。本山の墓地も、諸精霊の成仏を願い、丑寅の方角に造られています。

 また客殿の横には鬼門おにもんがあるのを御存知でしょう。これも艮の方角に口を開けています。鬼の面が中心に掛けられていまして、その鬼とにらめっこしつつも、誰でもそこを通用できます。

 先ほどの陰陽道の思想から言うと、東北に門を作るなどとんでもない、鬼が入ってきてしまうということになりますが、大石寺の鬼門は「帰門きもん」(帰入の門)と書いて、一切の衆生、鬼でも畜生でも地獄の番人でも皆入ってきなさい。そして妙法に帰入しなさい。さすれば十界それぞれ、如何なる境界の衆生でも救われるというのが、御本尊に帰入・帰依する功徳です。そういう意味で作られた鬼門おにもんです。

 この意義を、第六六世日達上人が説かれて、

末法、本未有善の凡夫は、鬼門より帰入し、大客殿に来至して謗法の念慮ねんりょを絶し、南無妙法蓮華経と唱うる時、久遠本仏の南無妙法蓮華経の和光に浴し、現身に金色の仏身を現わし、即身成仏の本懐を遂げるのであります。

(達全一輯一巻300㌻)

と、鬼門を通り、客殿に参詣する意義を御説法されています。

 皆様も丑寅勤行に参詣したつもりで、鬼門から客殿に入って、着座してみましょう。

 客殿は毎日欠かさず、丑寅勤行が奉修されているお堂です。先ず御宝前に向かいお題目三唱をしましょう。

 顔を上げると、須弥壇中央には、日興上人御筆の大きな板御本尊が御安置されています。いわれについては、その昔、身延を離山された日興上人が、上野の地頭南条時光殿の招請により、大石寺を開かれました。

 正応三年十月十二日に大石寺は開創されましたが、その翌十三日、日興上人は御座替御本尊と称される大幅の御本尊をおしたためになり、向かって右側下部分に「日興(花押)」と書き判をされ、同じく左側下(通常書き判がなされる位置)に「日目に之れを授与す」とあります。わざわざ日目上人のお名前を書き判の位置に入れられたのは、この時すでに「次の座(次期御法主)を日目に譲る」と、内々の御意志を示された御本尊の意味で、「譲座御本尊」(御座替おざがわり御本尊)と称されてきました。

 その後永年を経る間に、紙幅の御本尊ですから、焼けて傷みも進みます。二十四世日永上人の時に楠板に模刻申し上げ、客殿中央に御安置して、元の紙幅御本尊は御宝蔵にお仕舞いし、毎年御霊宝虫払会の砌に御宝前中央に奉掲されるので、虫払会に参詣された方にのみ拝める御本尊です。

 以上は、客殿中央の御本尊についてですが、その左右には御影様が御安置されています。向かって左側が大聖人の御影様、右側が第二祖日興上人の御影様で、日興上人の御影様は大聖人の御影より老齢に造られています。

 この客殿の御本尊奉安形式を別体三宝式と申します。

 三宝というのは仏法における三つの宝のことで、仏法僧の三宝を言いますが、総本山客殿においては、下種仏法における仏法僧の三宝を、横に広げて拝せる形で御安置される別体三宝式がとられています。

 因みにこの護国寺御宝前の御本尊や、皆様方のお家の御本尊は、別体三宝式に対して一体三宝式と言います。どちらの三宝式も仏法僧の三宝が具わっているのですが、分かり易い例で申しますと、客殿のは扇を広げた形で、別体三宝式。この護国寺御宝前や皆様のお宅の御本尊は、扇を閉じた形の一体三宝式、このように拝して下さい。

 これとは別に、住持三宝式がありますが、いわゆる総本山の御影堂の御本尊です。御影堂は板御本尊の前に大聖人様の御影を御安置して、大聖人が御影堂に常にお住まいになられる如く、如在にょざいれいを執るのです。これは大聖人御在世の時の姿を顕しています。この観点から言えば、客殿の方は滅後の姿を顕しています。

 さて、客殿の御宝前に話を戻しましょう。御宝前は別体三宝式となっていますが、その左前に、猊座が設えてあります。丑寅勤行で御法主上人猊下が東向きに坐られているのを御存知でしょう。猊座は日目上人の座で、一閻浮提の座主であります。東向きであるのは、大衆(一般僧侶)及び檀信徒の参詣を、御宝前の三宝尊に取り次いでいる形です。そして御法主上人が隠居なされると、目師座は次の御法主に譲られ、御隠尊は東側の座に遷られて西に向かわれます。今の御隠尊日顕上人の座がそうですね。このように、三宝尊は南に向き(真南ではなく、やや南東向き)、大衆信徒は北(真北ではなくやや東北向き)に向き、御法主上人・御隠尊上人は東西に向かい合い、全体を見渡せば、それぞれ中央に向かい合った形となります。これは広宣流布した暁には、皆がともに向かい合って読経唱題している寂光土の姿を、あの客殿に現しているのであります。

自我偈に「自我及衆僧じがぎゅうしゅうそう 倶出霊鷲山くしゅつりょうしゅざん(時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず)」(法華経440㌻)と説かれる様相が、毎日丑寅の刻を期して、あの客殿の中に繰り広げられているのが、丑寅勤行であります。

 最初の御書に戻りまして、

三世の諸仏の成道は、ねうしのをはりとらのきざみの成道なり。仏法の住処は鬼門きもんの方に三国ともにたつなり。此等は相承そうじょうの法門なるべし。

とありました。皆様方も丑寅勤行に実際に出させていただき、様相を実際に拝しますときに、「相承の法門」と言われたこの御書の深い意味も、自ずから御理解されるのではないかと思います。

 本日お話しした内容の全体を通じて、キーワードとなっているのが「丑寅」という言葉です。状況に応じて、生死の中間と表現したり、薄墨とか中道と言ったり、時刻に約したり、方角に約したりする場合もありますが、何れもが「成仏」につながっている言葉であることがお解りいただけるのではないかと思います。

 御法門は尽きませんが、本日は、「丑寅の法門」の一端をお話させていただきました。講習会登山の季節です。宿坊に一泊した上で、丑寅勤行にも参加させていただける良い機会ですので、振るって申し込んで下さい。

 丑寅勤行に参った折には、本日の話を思い起こしつつ、三世諸仏の成道の時刻、常寂光土となる客殿の空気を、心ゆくまで感じて下さい。


(2020年4月)