住職 榎木境道
現代は「刹那主義」で生きる人が多い世の中のようです。その時々で生き方を決めていくとでも言いましょうか。三世に亘っての因果を説く仏法とは対極にある生き方です。
「刹那」とは本来は仏教用語で、一弾指の六十五分の一という瞬時をいい、あるいは劫の反対語、また一念の念(今の心)と同じ意味ともされます。そういう仏教用語が思想としてではなく、言葉だけが転用されて、世の人々の生き方を表現しているのも、いささか皮肉のようにも感じられます。
以前に出くわした一場面ですが、働き盛りの主人に重大な病気があることが発覚、何かにすがりたい一心で奥さんが当山の門を叩かれました。私は正法を持つべき意義を話し、看護してあげるのは端からのサポートにしかならないが、信心を持って念じていくことは、家族それぞれが主体者となり、共に病と闘えるんですよ、という話をしました。しかし同席した娘さんは、「信心をすれば、多少は長く生きられるかもしれないが、所詮は定められた命であり、今更すがっても余り意味はないのではないか」との考えを述べていました。
もう一つ、母と子息の二人で生活してきた家族、最近母親が病気で亡くなり、その母親が多少正宗とも縁があったので、法華講員が残された若者の所に折伏にいきました。しかし本人の考えは、今さら宗教を考えても致し方がないと、煩わしさ等々が念頭に上がり、正しく親を回向していこうという気持ちにはほど遠かったようです。
二つの例とも、そこに登場した若者は、現代刹那主義を象徴しているような感覚のように思えました。信仰というものへの無関心は致し方無きにせよ、自らが関わる現実を直視し、何らかの解決の道を見出そうという、積極さが感じられません。
肉親の身を案じて、藁にもすがりたいという一念を、現代人は失ってしまったのでしょうか。余りにも諦めが早く、現実を単純に受け入れすぎてはいないだろうかと感じます。
「諦め」というのも本来は仏教用語で、仏道を求める中で得た達観した境地、「諦観」のことを言います。一般的な意味としては、仏道を積み重ねるという裏付けによって、どんな事態にも心が乱れず、現実を従容として受け入れられる境地です。しかしそこに至るまでには、身心ともに大変な葛藤があったはずで、それを乗り越えた上に到達できる境地です。現代の若者の単純な「諦め」とは、大いに違うことは言うまでもありません。
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仏法とは、仏が世の人を正しく導くために出現され、説き示された大事な指導原理です。「このような教えのもとに生きていけば、生涯を幸せに過ごせます」といって説かれたのが仏法であれば、本来これを拒否する理由はないはずです。
日蓮大聖人は『持妙法華問答抄』(平新296㌻)に、岸壁から海に墜ちた者が、助かろうとする時の譬えを挙げられます。岸にいる人が「これに掴まれ」と縄を投げ入れた時に、墜ちた者は引き上げてくれる人の力を疑い、掴まるのを躊躇するであろうか。あるいは縄が切れてしまうことを危ぶんで、掴まることをしないだろうかと問われています。助かる為には余計な事を考えず、何より縄に掴まることが大切で、これを「以信得入」(信を以て入るを得)と言うのだと説かれています。
我々の住む世の中はまさに火宅の如しで、いつ何時、どのような事が起きるかわかりません。そうした危うさを知りながら、仏道を求めることが出来ないのは、一体どうしたことでしょう。
日蓮大聖人は『一生成仏抄』に、
夫無始の生死を留めて、此の度决定して無上菩提を証せんと思はゞ、すべからく衆生本有の妙理を観ずべし。衆生本有の妙理とは妙法蓮華経是なり
(平新45㌻)
と仰せです。我々現在の生は偶然にして、たまたまここに存在したのではなく、無始以来の生死を繰り返してきた結果としての、今生における命です。我が命も父母や先祖という因縁があって存在することを思えば、この世において、自分一個の考えで何かができるものでもなければ、まして自分一個で生きようとすること自体が、道理に反していることに気づかなくてはなりません。
そのような我々の存在こそは「衆生本有の妙理である妙法蓮華経」であり、その妙法に帰依することが三世に亘って救われる唯一の道なのです。 本年の護国寺支部は、より多くの人に妙法の信心を教える「下種折伏」活動を徹底しましょう。
(2020年2月)