「御入滅」について

住職 榎木境道

 日蓮大聖人は1281(弘安五)年10月13日、武蔵の国(現東京都)の檀越池上右衛門大夫えもんたいふ宗仲むねなかの館において御入滅遊ばされました。御歳六一歳。この時にわかに大地が震動し、池上邸の庭先にあった桜の木が、一斉に時ならぬ花を付けたと伝えられています。

 仏様の死を入滅と申します。あるいは高僧の死も含めて入滅と言う場合もありますが、入滅の滅とは滅度の意味で、元来は悟りの境地に達するとか、悟りの世界に渡るという意味です。しかし日蓮大聖人を末法の御本仏と拝する本宗の教えでは、大聖人の臨終をもって「入滅」と申し上げているのです。これは単に大聖人が亡くなられ、肉身が滅びたという意味ではなく、法華経に説かれる御法門の上から、大聖人御入滅の意義を拝することが大切です。

 法経如来寿量品の自我偈は、私たちにとって身近な御経文です。その中に「以方便力故いほうべんりきこ 現有滅不滅げんうめつふめつ(方便力を以ての故に滅不滅有りと現ず)」(法華経440㌻)とあります。寿量品に説かれる仏様は方便の一つとして、御自身の身をもって入滅の相を示されたという意味です。しかし本来仏様の御境界は常住であり不滅であることを、「以方便力故・現有滅不滅」と説かれました。

 仏様が常住の存在であることは、法華経本門の法門として最も重要であり、他の爾前諸経、あるいは法華経迹門にさえ説かれなかった一大事です。本仏が常住であればこそ、その教えも、常住不変の真理が説かれているのです。

 このように「滅不滅」とは、仏様の三世常住される御境界を表現された御文で、日蓮大聖人が弘安5年10月13日、「入滅」のお姿を示されたのも、法華経寿量品に説かれる「滅にして不滅・三世常住」の相を示されたことに他なりません。

 法華経寿量品には、この「滅不滅」と表現された仏の三世常住の法門について、良医病子のたとえでより詳しく説かれています。すなわち仏様が過去・現在・未来の三世に亘って衆生を利益する譬えについて、「三世の益物やくもつ」として以下のように明かされるのです。

 良医の父が子どもたちを置いて他国に行ってしまった。これが過去の益物です。すると父のいない間に、子どもたちは誤って毒薬を飲み苦しんだ。帰ってきた父は子どもたちの為に薬を調合して、再び他国へ旅だった。これが現在の益物やくもつです。そして父の去ったことを悲しんだ子どもたちが、良薬を飲んで治癒し、父が再び帰り子供らと顔を合わせて喜んだことを、未来の益物と言うのです。

 本来仏様は三世常住で、最初から衆生とともに存在するのですが、せっかく身近におられても、衆生には我がままな心があり、仏の教えを素直に聞きません。或いは仏様がいつも姿を見せていると、衆生は仏様を有り難く思う気持ちを失います。

 仏様はそういう衆生の性根をご存じである故に、姿を現すこともあれば、隠れることもあるのです。これを「非生現生ひしょうげんしょう」(生に非ずして生を現ず)、「非滅現滅ひめつげんめつ」(滅に非ずして滅を現ず)と言います。すなわちこの世に誕生される姿、及び入滅を迎える姿を衆生に示され、仏様を渇仰恋慕かつごうれんぼする気持ちを失わないようにされました。このことを良医病子の譬えで示されたのであります。

 以上は法華経寿量品の文上(文相)に沿った説明です。文上の釈尊は、五百塵点劫という久遠の昔に成道を遂げたことを明かした大変長寿の仏様でしたが、五百塵点劫という限界があり、その教説も完全円満な真理を説き尽くしてはいません。

 これに対し末法出現の日蓮大聖人は、法華経に予証された三類さんるい強敵ごうてきに対し、不自惜身命のお振舞を実践される中で、三大秘法の仏法を建立遊ばされました。竜口たつのくち発迹顕本ほっしゃくけんぽんは、まさに凡夫僧の日蓮大聖人が、久遠元初・本因妙の妙法蓮華経を唱え弘める中で、名字みょうじ本仏の御境界を顕されたのであり、その御内証を、後に出世の本懐として顕されたのが、本門戒壇の大御本尊です。

 日蓮大聖人が弘安五年10月13日に御入滅遊ばされたのは、寿量品に説かれる御本仏の「非滅現滅ひめつげんめつ」の御境界そのままのお姿と拝されます。

 このように本宗では、日蓮大聖人の御入滅を、御本仏が三世常住される一端のお姿と拝し、その常住される御境界をお祝い申し上げる儀式として、御大会(御会式)を奉修しています。

  御本仏大聖人は日夜我々をご覧遊ばされ、加護を下さっているのですから、法華講員の皆様には、御会式には必ず寺院にもうで、ともどもに真の御報恩謝徳を申し上げましょう。


(2019年10月)