住職 榎木境道
源頼朝が鎌倉幕府を開いた時代、京都に歌人藤原定家(1162~1241)が活躍、日記風のエッセイ集『名月記』を半世紀にわたって書き連ねています。記事の中でも注目されるのが超新星の出現記録。超新星とは太陽のような恒星が最後を迎える時に突如として輝きを増し、最後は大爆発を起こして消滅する、その間際の星のことです。望遠鏡の無い時代の超新星出現記録は世界に七例しか無く、その中の三例が『名月記』にあることで、世界的にも一躍有名になりました。
三例の全てが定家の時代に現れたというわけではなく、天文現象に興味を持った定家が、陰陽師の安倍泰俊に調べさせた過去の記録を、『名月記』に書き残したというものでした。
『立正安国論』をはじめ諸御書には、諸経に説かれる天変・変異の諸相が引用されています。星に関するものとしては、仁王経の七難があります。
二十八宿度を失ひ、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星、是くの如き諸星各々変現するを二の難と為すなり。
(御書236㌻)
と、星のそれぞれの名前を連ね、それらが変異することを七難の内に数えています。ここに挙げられた星は、名称こそ現在どの星か判然できなくても、古代人が星を観察することにおいて、現代人に少しも遅れをとらなかったのであり、その変異についても非常に敏感だったのです。
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時代は下って日興上人の時代、重須におられた上人が大石寺の日目上人へ宛てたお手紙に、当時の天変に触れられています。
「鎌倉よりの天変事は弁殿日法の給て候」(歴全一巻102㌻)と、鎌倉にいる弁殿日法(あるいは弁阿闍梨日道上人のことか)から天変の事を聞かされたとあります。続く御文に、当時これを見た人たちが月と星とが相撲を取った(接近したとの意か)などと騒ぎ、重須の地頭石川殿もわざわざ日興上人の許へ使いを立て、何か大きな異変が有るのでしょうかと尋ねてきました。
また大石寺の日目上人よりも、これに関する書状を日興上人に出されたので、その御返事を日興上人がしたため、今朝は大石寺に近い西山の地でも、燃える星を見たという人と雑談したが、こうした異変について、まだはっきりしたことは判らないと、日興上人は書かれています。
この星の騒動とは別に、日道上人が重須の日興上人へ宛てて出されたお手紙にも、
抑も今月(2月)6日夜、月を星のとをして候の由、皆人申し合わせ、同十日夜中大地震おひただしく揺りて候
(同284㌻)
と見られます。「月を星が通した」とは、月の前を星が横切ったことを言うのでしょうか。しかもその四日後に大地震があったので、人々は一層恐れおののいた様子がうかがえます。
以上、初めに挙げた『名月記』の記事は当然ながら、日興上人や日道上人の書簡の内容にしても、現在の私たちの時代に起きればどうでしょう。天体ショーなどとのんきに構えられる限度を越えた、パニックの事態になるかもしれません。
現代の私たちには科学的な智識があるとはいえ、宇宙が本来持つダイナミックな力は想像を絶します。たまたま我々の時代に大きな動きがなかっただけで、大地震や気温変動を含め、これからどんな事態が待っているのか想像はつきません。
仏法では四劫といって、この世界が成劫・住劫・壊劫・空劫の時代を各二〇小劫づつ、順次巡ると説いています。成劫は世界の成立期で、国土世間が先ずでき、そこに十界の衆生も生まれます。住劫は存続期で一番安定した時代、壊劫は破滅に向かう時期、空劫は何も無くなる時代です。実感は無くとも、宇宙空間における星の生成から爆発までの過程を見れば、理屈として理解せざるを得ません。まさに経典にうかがえる仏様の智慧は、実相に透徹していて、違うことは無いのです。
しかし大聖人は寿量品について、「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり」(平新六五四㌻)と文上に則して説かれています。真実の常住を説く法華本門、なかんずく末法の三大秘法をもって、三災や成住壊空の四劫から離れた常住の仏国土が築けるのです。それは衆生の一心一念によるのであり、即ち正法に帰依する人が増えていくことに他なりません。平成法華講衆の折伏目標もここにあることを自覚しましょう。
(2018年5月)