住職 榎木境道
平成30年のNHK大河ドラマ「西郷どん」では、島津藩主斉彬を渡辺謙が演じ、その養女として一三代将軍家定の御台(正室)となった天璋院篤姫も登場しました。この二人が本宗の信心をしていたことは余り知られていません。宗門には五一世日英上人による史料等が残されるなど、本宗との関係も深く、ここに紹介したいと思います。
総本山東側裏塔中の遠信坊は、江戸時代末期の文久二(一八六二)年六月一五日、日英上人により再々興が果たされました。
この時の因縁が記された同坊本堂の板御本尊裏書きに、「島津斉彬公は養女篤姫を、首尾良く十三代将軍家定の御台に輿入れさせるため、成就を願い日英上人に金子百両の御供養があった。上人はこれを元に遠信坊を再興した」との内容で、末尾に「斉彬公御法号順聖院殿大檀那と仰ぎ奉る者也」(諸記録第一部一一三)とあります。
裏書きによれば、薩州公が本宗に帰依したのは、嘉永六(1853)年で、ちょうどペリーが初めて浦賀に訪れた年で、翌安政元年には安政大地震、続く二年には江戸大地震も起き、日本中が大変な騒ぎとなっていた時でした。
薩州公が、本宗に帰依したいわれは、江戸常泉寺に高野周助という小間物を商う信徒があり、八戸の南部藩邸に出入りしていました。周助は奥女中の喜佐野を折伏、喜佐野を通じ藩主南部信順公が入信することになったようです。
南部藩ではかつて弘化元(1844)年、先代藩主の時に阿部喜七など本宗信徒を弾圧した八戸法難があり、その時の逆縁が、信順公の代になって実を結んだ形です。喜佐野は、法難時に本宗信徒への言われなき弾圧があったことも信順公に話しつつ、折伏を成就、入信へ導いたのです。
信順公の出身は薩摩藩で、南部藩主の後継がいないことから養子に入っていたので、薩摩の斉彬公からすると、祖父の弟、すなわち大叔父に当たる関係です。そこで信順公を通じて、斉彬公に折伏がなされたのか、あるいは信順公を通じて、高野周助が斉彬公へも奨めたのか、経緯は不明ですが、ともあれ二人の藩主は時を同じくして、富士大石寺の信心をすることになりました。
日英上人の安政元(1854)年10月15日と推定される書簡(諸記録一〇部二三八)には、この年8月の同じ日、斉彬公と信順公へ同時に御本尊をしたため「御兄弟御本尊と申し上げたい」との趣旨を書かれています。また、島津家四人の姫君には御秘符を差し上げ、とりわけ篤姫君には薩州公の願いで、お守り御本尊と常住御本尊を授与し奉ったと明かされ、宗門を厚く外護した天英院様の時代のようになったと喜ばれています。
さらに翌年薩州公が帰国の道すがら、大石寺に参詣されるとの噂も出ていること、出府した上で、薩摩にも一箇寺建立を願おうともあります。
薩州公は、翌年頃より篤姫婚儀の関係で帰国は延期され、大石寺参詣も叶わなかったのですが、篤姫をはじめ薩州公四人の姫君が、みな入信していたことは明かです。
こうして篤姫は、安政三(1856)年12月18日、無事家定公の御台となったものの、夫君は生来病弱であり、安政五年七月には薨去(こうきょ)され、篤姫は落飾して天璋院(てんしょういん)と号されます。
十四代将軍を嗣いだのは、大老井伊直弼等の押した紀州家出身の家茂でした。しかし水戸家出身の慶喜(のち一五代)を押す勢力との継嗣争いは続きます。天璋院は本丸に残り、江戸城開城まで数千人いたと言われる大奥の人々をとりまとめる手腕を発揮、後世への語り草となりました。
気丈な天璋院といえ、夫君を喪った同じ年に、義父斉彬公の卒去にも遭い、無常観は一層つのります。世上は開国か攘夷かでゆれ動き、万延元(1860)年には桜田門外の変も起きました。この年、天璋院は帰依した日英上人に、天下安全の祈祷と法華経一巻書写を申し出られています。
日英上人は、3月14日より翌閏三月を越えて4月5日までの51日間、1日12時間の唱題をもって御祈念されたところ、次第に世上は穏やかになり、喜ばれた天璋院は、お礼に金子百両と種々の品を添え、日英上人の許へ御供養として届けられています。薩摩藩奥女中「小野嶋」の手紙(常泉寺文書)から知られる事実です。
以後幕府は崩壊の道をたどり、天璋院が宗門外護をする機会も失われました。明治16年、天璋院が49歳で薨去されたとき、御隠尊日霑上人が追悼の歌を詠まれています。
雪霜に 操たゆまな松か枝乃
あわれ玉ちる 志賀乃浦かせ 妙道
(2018年2月)