此の一凶を禁ぜんには

住職 榎木境道

 国会で審議する時間を最大限吸収し、安倍総理へ飛ぶ火の粉を防ぐことだけが目的としか見えない、今国会末期の荒れ模様。文科省と内閣府を巻き込んで、恥も外聞も無い姿を国民の前にさらしました。とりわけ木で鼻を括ったような答弁の菅官房長官の狡猾さは、国民の記憶からそう簡単に消えることはなさそうです。

 中国古代に出た聖人せいじん孔子の教えに、

民は之れに由らしむべし、之れを知らしむべからず

とあります。「人民にはただ従わせて、着いて来させればいいんだ。詳しい説明なんかいらないんだ」という、まるで今の安倍総理のごとく、国民を軽んじた姿勢を象徴するのにぴったりではないの……と、解釈してはいけないのです。

 ここに二度使われた「べし」は、命令ではなく、可能性・推測を意味する「べし」です。ゆえに、「為政者は人民より政治・政策について信頼を得ることはできるだろう。しかしその一つひとつの意義内容を知ってもらうのは難しい」と、一般には解釈されています。

 一つの政策が一面では得策であっても、一面では愚策と評される場合があります。また当面する課題を即刻解決すべき場合と、長期的展望に立った効果を狙う場合とでは、評価も異なります。そういう事を詳しく説明しても、人々にはなかなか理解してもらえない。だから、政治家は日頃から、「あの人に任せておけば大丈夫」との信頼を、人々から得ておくことが大事だという意味で、孔子は説いたのです。

 今の世の中は、政治家は新聞やテレビ、ネットなどで政策の趣旨を説明出来ますし、それを理解できる教養の高い国民なので、孔子の時代とは違うかもしれません。しかし、政治家が人々の信頼を得て行う政策を、喜んで受け入れてもらうという基本は、いつの時代も変わってはならないと思います。

 さて今日の政治家、とりわけトップに立つ安倍総理の、信頼感はどの程度でしょう。この人に限らず、今の政治家で真に信念を持って政治に取り組んでいる人がどれだけいるのか。東京都知事選にからんで、簡単に政党を替えたり、選挙選を少しでも有利にしようと、スタンスを変えた政治家は数え切れません。「寄らば大樹の陰」的な、おもねる政治家の何と多いことか。

 その原因は一体どこにあるのでしょう。

 『立正安国論』には仁王経を引かれ、

国土乱れん時は先づ鬼神乱る、鬼神乱るが故に万民乱る

とあり、今の政治状況そのままに当てはまります。 そして、

かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには

(平新241㌻)

と。鬼神は誰なのか、「此の一凶」が何に当たるのか、我々はよくよく見極めなくてはなりません。

 水戸光圀公ゆかりの小石川後楽園、岡山市にも江戸初期の藩主池田綱政公によって造られた後楽園があります。名称の由来は、中国宋代の范文正公による、

天下のうれいに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ

とある、「先憂後楽せんゆうこうらく」によるものとされています。国民に先に楽しませ(楽を与え)、自分が楽しむのは後にするという、君主の徳を説いた教えですが、政治家たる者も、今のままの政治が続けば将来どんな事態を招くのか、我々庶民より知っているはずです。一票の欲しさに、節操も信条もかなぐり捨てる愚かさを改め、天下国家を先んじて憂うる姿勢があれば、票は自ずから着いて来ます。

  御書にも中国の古典『貞観政要じょうかんせいよう』が引かれて、

れ賢人は安きに居てあやうきをおもひ、佞人ねいじんは危ふきに居て安きをおも

(平新1168㌻)

と。「危ふきに居て安きをおもふ」という佞人政治家ばかりが目立つ昨今です。今の日本を、そういう政治家ばかりにしてしまった、某宗教団体による積年の策謀こそ、天魔の所為そのものであったと断言するものです。

 宗祖大聖人が『立正安国論』を奏進して国主諫暁をされた七月、我等正法正義を捧持する僧俗は、いよいよ真の折伏行に徹する時を迎えています。


(2017年7月)