「毒」のはなし

住職 榎木境道

  秋はキノコ狩りの季節、でも地域によってはクマに襲われる事件が最近はとみに多いようです。

 私は小学校六年の時に得度をして、大坊生活では富士山麓のキノコ狩りに連れていってもらったのを覚えています。何という名のキノコか知らないが、皆でたくさん採ってきて、翌朝味噌汁に仕立ててくれた美味しさは忘れられない。今でもキノコ狩りをしたいのは山々でも、毒キノコの見分けも知らないので怖くて実行できません。

 私が住職の初任地として赴任した沖縄では、戦時中ソテツ地獄というのがあったそうです。食料が無くなるとタンパク源として、野にあるソテツの実を口にせざるを得なくなる。そのままだと毒にやられるので、日に干して毒を消す。ところが食料が尽きたひもじさから、十分干さないで食べて、結果命を失った人が相当いたという。

  キノコもソテツも植物の方は、人様に危害を加えようと、毒素を体内に蓄えているわけではない。それを「毒だ毒だ」と毛嫌いする人間の方が、勝手なのかもしれません。手術に使う麻酔は、人体にとって本来は毒物でも、適度の使用で大いに役立ちます。虫歯一本抜くにも、麻酔薬抜きでは耐えられません。

 仏教では心における「毒」のことを説いています。「貪瞋癡とんじんち三毒さんどく」と言います。「貪」は貪欲とんよく、むさぼり。「瞋」は瞋恚しんにでいかり。「癡」は無知、道理に暗いこと。この三つは人間を不幸に追いやる代表的な煩悩とされ、誰の心にも存するもの。

  私たちの読誦する法華経寿量品は、毒にあてられた衆生を癒すお経文です。「諸子於後しょしおご 飲他毒薬おんだどくやく 薬発悶乱やくほつもんらん 宛転于地えんでんうじ」と。即ち「諸子のちに他の毒薬を飲む。薬発やくほつし、悶乱もんらんして地に宛転えんでんす」と訓読されます。つまり我々衆生はみな仏の子ではあっても、毒薬を飲んでしまい苦しみ悶えているのだと、こう説かれています。

 仏である父は、その子どもたちの毒をいやそうと、良薬を調合しますが、毒気が深く入り本心を失った子どもたちは、薬を飲もうとさえしない。そこで父は方便の教えを用いました。

自分はもう年老いて、余命幾ばくもない。ここに良薬を置いておくから、毒気に宛てられた子どもたちは、必ず取って服用するように。

こう言い残して、他国に出かけていくのです。そして、すでに父は他国で死んだと伝いを出します。子どもたちはこの事態に大変悲しんだ。父はもう自分たちを救ってはくれないのだと。そこで父の残していった良薬を思い起こすのです。毒気で苦しみながら、ついぞ飲もうとしなかった良薬も、いざ父の死を聞いたことで、諸子はそれぞれ思い直し、ようやく服することが出来た。これが「良医病子ろういびょうしの譬え」です。

 「貪瞋癡の三毒」は我々煩悩の用きですが、本当の三毒とは、「謗法への執着」という毒であると、大聖人は説かれています。『御義口伝』に、

毒気深入どっけじんにゅうとは権教謗法の執情深く入りたる者なり。これに依って法華の大良薬だいろうやくを信受せざるなり。

(平新1768㌻)

と。つまり謗法への執情が、我々衆生の煩悩の用きを活発にしてしまい、せっかくの大良薬である妙法の題目を受け入られないのです。反対に、

妙法の大良薬を服する者は貪瞋癡の三毒の煩悩の病患(びょうげん)を除くなり。

(同)

とも仰せで、妙法の題目を服する者は、三毒という病気を除くことができると説かれた御文です。

 しかし「三毒」も、これが悪の根源だからと、一つ一つ消滅させた末に解決できると説いているのは爾前権教です。では、法華経ではどう説かれるのでしょう?

く毒を変じて薬と為す

(平新1405㌻)

と、大聖人は大智度論と天台の文を引かれています。有名な「変毒為薬へんどくいやく」で、毒をそのまま薬に変えるのです。

  我々の日常生活でも、自分にとって悩みや苦労の種、好ましく思えないこと、不幸の原因らしきは多々あります。しかしそれらが自分にとって「毒」と決め込む前に、そう思う自分自身を変えられないか、もう一度唱題をした上で考え直してみましょう。存外毒はそのまま薬と変わり、解決の道が目前に開かれるのではないでしょうか。


(2016年12月)