住職 榎木境道
外国人の出入りの多いのが鎌倉で、また近年の護国寺です。必然的に我が英語力のなさをなげくはめになっています。
ところで世の中でも、文科省の方針として、2020年から小学五・六年生の正式な教科として、英語を取り入れていくそうです。さらに大学入試はもとより、大学の講座も次第に、英語による講義が主流になっていくという雲行きです。
こうした国を挙げての英語教育の改革が、世の中にどのような変化をもたらすのでしょう。ある政治学者は批判的に次のような指摘をするのです。英語による高等教育を受けた指導的な地位に就ける人と、日本語しか話せない普通の人というように、世の中の分断化が顕著になること。高度な学術研究は日本語では語れなくなり、専門書を出すにも日本語で書けば売れない。さらには、新しいことを考えたり作り出す創造性は、母国語に拠るのが最適で、英語重視の世の中になると、日本人の創造性が後退する(施光恒・朝日新聞H28.9.8取意)。
紙上に語られた内容で、私なりにまとめてみましたが、他にも様々な問題を指摘しています。
なるほど、日本人の英語教育の遅れは昔から言われてきたことで、政府が本腰を入れて英語教育の徹底に取り組んだ場合には、日本人が永年培ってきた文化や社会そのものも変え、ゆゆしき事態を招くと言わねばならないのです。
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では我々が使命とする、仏法流布の上からはどうでしょう。英語が氾濫する世の中になれば、経典や御書もどんどん英語に翻訳されることになります。曽てのインドで、サンスクリット語やパーリ語で説かれた仏教が、漢文の経典に翻訳され、さらに日本語の仮名交じり文となって、我々もたやすく内容を知れるようになったのは事実です。同じようにこれからは、日本語の経典や御書も、どんどん英語で翻訳され、広宣流布推進の一翼を担うのでしょうか?
答えは「ちょっと待って!」です。何故か?と言うと、日本は末法の御本仏出現の国であり、大聖人が三大秘法を説き顕した、その言葉が件の日本語、いわゆる和語(古典国語)なのです。大聖人が末法愚迷の凡夫を教化するのに、最も相応しい言葉として、和語を使用されたことは、軽々に考えるべきではありません。
この点については、宗門上古の時代に、日興上人と五老僧との間で、見解の相違から争論となりました。いわゆる大聖人は信徒に対し、仮名文字を使用した書状を多く出されています。対告衆の理解力に応じて、難しい漢文を使用された場合があっても、一方で平仮名を交えた書簡もかなり残されています。これについて五老僧方は、漢文体でない書簡等は、大聖人の恥辱を後世に残すものだとして、焼却するなどして処分しています。これに対して日興上人が破折されます。
「大聖人が日本国に出現し、末法本未有善の機根に合わせて、仮名文字を使い法門を説かれた。それを弟子等が勝手に仮名文字を否定し、漢文御書のみを尊ぶといった所業をすれば、まさに師敵対の行為である。そもそも梵字も漢字も、和語にしても、時と機により使い分けたのであり、もとより優劣は無い。しかし示同凡夫の大聖人が、末法の衆生を教化する手段として、仮名文字を使用されたのであれば、あえて漢文を尊ぶ必要があろうか」と、日興上人は五老僧の姿勢を厳しく破折されました(五人所破抄取意)。
但し続く御文に、「正像時代の仏法東漸の時には梵字を漢字・和字に翻訳して弘めた。それと同じように、末法に三大秘法が広宣流布する時には、日本語で顕された教えは、外国語に翻訳し弘めておおいに結構である。しかし五老僧のように、仮名の文章を残すのが恥じだからという、安易な理由で改変することは、許されないことである」とも述べられています。
帰するところ、御書中の枢要な法門や大事な言葉については、大聖人がお使いになった原語(和語)でそのまま理解すべきで、またそのように努力すべきです。そこにどんな巧みな翻訳を心懸けても、原語そのままの理解・解釈とはずれが生じ、時代が進めば拡大していくことは必定です。
世上にこれから起ころうとしている、日本語の使用が日常生活に限られ、知的な作業等には使われないとしたら、それはそのまま下種仏法の危機と言うべきです。我々の手で日本語の末永い寿命を守らなくてはならない時代です。
(2016年10月)