餓鬼のはなし

住職 榎木境道

 今年も盂蘭盆の時期を迎えています。

 盂蘭盆の起源は、目連尊者が母青提女しょうだいにょの、餓鬼道に堕ちて苦しむ姿を見て、何とか救ってあげたいと発心するところから始まります。

 青提女の堕ちた餓鬼道というのは、我々人間界よりずっと下にある世界と言われています。目連のような神通力を使ってこそ、その様子がわかるのですが、普通の人にはなかなかわかりようがありません。

 では我々の住む世の中に、餓鬼道の衆生がいないのかというと、決していないのではなく、周囲を見渡せば、それらしき衆生をそこここに発見するのです。

 十界互具・一念三千の教えからして、人間界にも十界は互具するのですから、この世の中に餓鬼道が存在するのは、むしろ当然と考えなくてはならないでしょう。

 御書には、餓鬼は三十六種類に分かれているとあります。鑊身かくしん餓鬼・食吐じきと餓鬼・食水じきすい餓鬼・有財うざい餓鬼・無財餓鬼・食法じきほう餓鬼などの名が挙げられています。みなそれぞれ現世において、あるいは過去世において、それなりの業因、宿業を積んだゆえの、果報としての境界なのです。

  目連の母青提女が、餓鬼道に堕ちた因縁を見ても、慳貪けんどんとがとあります。生前むさぼり惜しんで、人に施すことをしなかった罪によるものです。

 ひるがえって、我々自身のいる世の中に当てはめた時、青提女の行為を架空の話しとして、見過ごすことが出来るでしょうか? 仏教は分かりやすいたとえが使われていても、その示唆するところ、決して現実と無縁の話しではありません。

 餓鬼にしても、のどは糸のように細く、腹は膨れ上がっているという、人間離れをした姿などより、そのようになってしまった因縁にこそ、眼を向けるべきではないでしょうか。

 たとえば「有財うざい餓鬼」。そのようになった因縁を、大聖人様は「今生にて財を惜しみ、食をかくす故なり」(平新469㌻)と仰せですが、財がありながら、より以上を求めようとする人々の何と多いことか。人間の習性として、ものが得られればそれに輪をかけて、もっと欲しがるのは当然です。「もっと欲しい、もっと欲しい」と。これを「もっとの二乗」と言うそうです。

 その結果、堕ちるところが餓鬼道と言うより、欲しがるその姿が、すでに餓鬼道なのです。「自分の持てるものに満足出来ない存在」、それが餓鬼とすれば、我々の周囲にはどれだけ、人の顔をした餓鬼が多く住んでいることでしょう。

 昔ある僧が、「人間ほどおろかな存在は無い。神仏に富貴を願うが、その願うことをやめれば富貴となるのに、それを知らない」という言葉を残しているそうな。

 では、こうした人間の悲しい習性は、どのように解決されるべきか、それを説いているのが法華経であることを忘れないでいただきたいのです。十界互具ですから三悪道の一、餓鬼界の命が我々にも具わっているのは致し方ありません。しかしそれを認めた上で、その一念三千を説いた教法に帰依する事こそ解決の道ではないでしょうか。『盂蘭盆御書』に、

自身仏にならずしては父母をだも救い難し、况んや他人をや。

(平新1376㌻)

ここには、自ら法華経に帰依することが、そのまま父母や多くの人々の成仏につながることを説かれています。また、

目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ(乃至)法華経の第三に云はく、『ねがはくはの功徳を以てあまね一切いっさいに及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん』

(同1377㌻)

と。仏道修行で積んだ善根は、ただ自分だけを利するのではなく、あまねく一切の衆生に平等に及ぼされ、成仏への直道に至るのです。

  仏法を信じてその大海に入ることは、自分中心の得益などという狭いものではなく、父母・先祖はもちろん、広く一切衆生に功徳はめぐらされていきます。これを廻向えこうと申すのです。

 盂蘭盆にはせめて父母・先祖など、有縁の精霊へ御塔婆供養を志しましょう。そうすることが、自ら慳貧の科を離れ、餓鬼道に堕ちる因縁をふさぎ、成仏への大きなる功徳を積むことになります。


(2016年8月)