孝と申すは高なり。天高けれども孝よりも高からず。又孝とは厚なり。地あつけれども孝よりは厚からず。(開目抄)

 孝養とか親孝行の言葉がなかなか聞かれなくなった昨今、代わりに「介護」の言葉が氾濫している。親を介護することも大事であるが、孝養には、もっと精神的かつ信仰的な意味も含めた、奥深いものがあると思う。
 むかし姥棄山の風習を扱った小説「楢山節考」があった。息子に背負われ連れていかれる最中、母は所々で枝を折って印を付けた。さては道標を作って、棄てられた後に帰ろうとしているのかと、息子は思った。母は、お前が帰る時、迷わないように折ったのだと言う。棄てられに往く道でもなお、我が子を思う母の心に対比させて、孝養の大切さを説いたのであろう。孝養は人が人として生きる上で、忘れてはならない徳目である。
 日蓮大聖人は孝について、天よりも高く大地よりも厚いと上に説かれた。孝養に籠められた深い意義について、これ以上適切な表現があるだろうか。この御文を声を出して読み上げると、孝を修飾する「高」と「厚」の語が、滑らかな言い回しにとけ込んで、心に残るようだ。
 孝の字は、老いた親を子どもが下で支える形である。仏教で説く孝養は、因果を重んじるので、道徳のそれとは異なる。親があればこそ今の自分がある。ゆえに親が因であり子は果となる。また今の自分が因となり、我が子が果となる。このように無始以来、因果因果を繰り返して、今の我々に至ったのであるから、先人たちが行ってきたように、我々も親に対して孝を尽くしていきたい。親の心を安んじつつ、必要とあらば介護にも精を出そう。