病あれば死ぬべしという事不定なり。又このやまひは仏の御はからひか。そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人、仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候か。(妙心尼御前御返事 平成900㌻)

 主人が重い病に罹ったために、平癒を願って髪を剃ったのが妙心尼である。日蓮大聖人はこの夫人に対し、病があっても、必ず死に至るわけではないと慰められた。むしろ病に罹った人こそが、仏法によって救われるのである。浄名経や涅槃経にはそう説かれていると。なぜなら人は病あるゆえに、それを乗り越えようと、仏道を求める心が強くなるからであると。
 現代人は病を感ずると、医療機関のお世話になる。そこで投薬や手術、入院治療で完治できれば良いが、場合によっては医者に見放される病もある。最後に「あなたは何か信仰をしていますか」と聞かれる場合があるという。昔から「病は気から」と言われてきたが、この原則は今も将来も変わらないだろう。病に対する強い精神力こそが一番の薬となる。
 ある精神科医が「祈りを込めない処方は効かないような気がするのは私だけではなかろう」(中井久夫「時のしずく」)と述べている。現代の科学的知見を代表する医師でさえ、祈りを込めて処方に当たっていることを吐露している。要するに肉体と精神は一体であるからで、魂をこめて医師が医術を施してこそ、患者の肉体も反応して治癒に向かう。これを仏法では色心不二(しきしんふに)と言う。
 死期の宣告を受けてから、藁にもすがる思いで信仰を求める人もいるがこれでは遅い。平素から正しい信仰を求めておくことが大事である。「病によりて道心はおこり候」とは、病という具体性をもった驚異が我が身に迫った時に、平素の求道心が生きてくると拝したい。