住職 榎木境道
身近な方が臨終を迎えた時、あなたはどのようにしてお送りしますか?
近年の日本は合理的なものの考え方が世の中に浸透して、人の死でさえ単純に考えてしまう傾向があるようです。ある世間的に著名な人物が「人は死ねばゴミになる」と題する本を出しました。するとその言葉が一人歩きして、世の人々がこれまで懐いてきた、死者に対する畏敬の念さえ変えているとすれば、非常に残念なことです。
これまでほとんど聞かれなかった「直葬」なる言葉も普通に使われ、現実にそれが増えている世の中です。身内の人が亡くなれば火葬に付して、埋葬の手間等を考えれば遺骨を拾うのもほどほどに、後に合葬施設に頼れば良いのでは、などと、安易に考える人が増えているようです。
もとより亡くなっていく本人が、最近流行の樹木葬や散骨などで良いからと、あるいは葬儀は出す必要はないなどと、遺言しているケースもあるようです。遺族に余り迷惑を掛けたくないという気持ちがあるのかもしれません。しかし後に続く子孫に対して、人の死の重みを軽く考えさせてしまう、結果を招いてはいないでしょうか。
このように、新しいことが持てはやされる世の中に合わせて、人の死も軽んじられる傾向です。しかし何の基準も無く、思い思いに故人を送っていくことは、培われてきた文化を破壊することになり、社会的にも良い結果をもたらすとは思えません。葬儀や葬送儀礼は、そこに人間の死生観も凝縮して反映されています。しかも先人たちの経験等によって長く伝えられたものです。葬送儀礼を粛々と進め、追善供養を大切に営むことは、肉親を失った悲しみを徐々に癒やす目的でもありました。このように考えてきますと、今ある現実の中で、単純に改変して良いものとは思われません。
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これを人の尊厳・人格という視点から見てみましょう。人はひとたび死ねば、その尊厳は消失するのでしょうか……? いいえ、決してそうではありません。一個の人間が臨終を迎えても、その尊厳は増すことがあっても、失われることはありません。ゆえに我々の先人たちは、葬儀や年回忌等を営んで、故人を大切にしてきました。遺骨や埋葬の方法などが、法律の上で厳格に規定されているのもその現れです。
人格にしても、本人がたとえ生きていても死んだ後でも、当然にして尊ばれてきました。七十年・八十年もこの世を生きた人の存在は、決して軽いものではなかったはずです。
ゆえに古来、長きにわたって先人たちが懐いてきた死者への畏敬の念は、時代が変わったからといって、合理的に変えて良いはずはありません。そしてこれから世の中がどう変わろうとも、死者や遺体・遺骨に対する畏敬の念は、不変でなければならないはずです。とりわけ父母や肉親であればなおさらです。
そのようにして物を言わなくなった死者に対し、我々はその人格を重んじるがゆえに葬儀を営みます。そこに死者も生者も、送られる人も送る人も、人間たる証があるのではないでしょうか。
それでも「葬法は自由にすれば良いではないか。本人が音楽を好んでいたのだから、音楽葬をしてあげるのが一番喜ぶはずだ」などといった声も聞かれます。近年とみに様々な葬法の例が見られますが、そのような営みがダメと言っているのではありません。これらの行事を行うのであれば、それは告別式あるいは故人とのお別れ会と位置づけて、葬儀とは区別して考えなくてはなりません。
因みに告別式の歴史は浅く、明治三十四年に亡くなった中江兆民のときに初めて行われたということです。告別式であれば宗教的な要素の有無は問われません。いわば故人の生前の気持ちを推し量りつつ、有縁の人の手で思い思いに行われれば問題はないと思います。
かたや葬儀は、仏法で説く生命観や死生観に裏付けられた、極めて宗教的・信仰的意義の深い行事です。本宗における葬儀も、故人の成仏を願って行われますから、御本尊を中心に、宗旨の化儀を重んじつつ、厳粛に行われるべき儀式です。
近年は世上の動きを反映して、お通夜を省こうと考える人もあるようですが、通夜から葬儀、荼毘(火葬)への流れは、本宗の化儀に則ったもので、それぞれに仏法上の意義もあることですから、できるだけ重んじていただきたいと思います。
(2019年2月)